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狗奴国王も邪馬台国王も「大和連合」の王である

 以下ある人のブログです。


「  邪馬台国論争で注目されるのが、


邪馬台国の女王・卑弥呼とは仲が悪い狗奴国の男王・卑弥弓呼である。


この名前を聞いたとき、卑弥呼と卑弥弓呼の名前の類似性の強さから、


この二人は非常に近い文化圏の者同士なのだと推測できるのでは?


いや、それどころか、この二人には同族の匂いすら感じるのである。 

そして、「卑弥呼」「卑弥弓呼」をそれぞれ上古音、中古音から判断して


「卑弥呼」という呼称は、「日巫女」「姫命」という日本語の発音を表しているという説があり、


それならば「卑弥弓呼」という呼称は、「彦御子」「彦命」を表している説もある。


これらは、日本書紀や古事記にも出てくる皇族たちの尊称でもあり


、「卑弥呼」「卑弥弓呼」も神聖化された存在だった可能性が強い。 

魏志倭人伝に伝えられた狗奴国の男王の呼称は


、「卑弥弓呼(彦御子 or 彦命)」という尊称で伝えられているのだ。


この呼称は、おそらく、邪馬台国側が狗奴国の男王のことを


「卑弥弓呼(彦御子 or 彦命)」と呼んでいたから、魏志にはそう記されたのだと思う。


ということは、狗奴国の男王は、敵対している邪馬台国側の人間から、


尊称で呼ばれていたと想像出来る。



『魏志倭人伝』の中で『王』が居たと明記されているの国は伊都国邪馬台国狗奴国で、他の国々には長官、副官等の役人名しか記されていない。


狗奴国の王の名前が「卑弥弓呼」=、「彦御子」「彦命」なのであれば


それはまさに大和朝廷の王の名ですね。


「日巫女」「姫命」この名前は役職名ですね、どうみても。


同様に「彦御子」「彦命」も役職名。大和朝廷の王をこう呼んでいたのです、きっと。




さてそれでは220年から250年くらいの


大和のオオキミは誰かというと


神功皇后!!!



神功皇后201年から270年まで政事を執り行なった。


仲哀9(200)年3月1日に神功皇后は齋宮(いはひのみや)に入って自らを神主となり、まずは熊襲を討伐した。


なんと女性の神功皇后。では天皇は空位か?


というと(宮内庁資料)


 




14代と15代の間が


なんと70年もの大空位時代です。


フリードリヒ2世が死去した1250年(またはコンラート4世の死の1254年あるいはヴィルヘルム・フォン・ホラントの死の1256年)からハプスブルク家ルドルフ1世が国王に選出された1273年までの期間を統一国王の存在しない大空位時代(Interregnum)と呼ぶ


この時23年も皇帝がいなということで神聖ローマ帝国は大変なことになり、


現在でもその歴史を振り返るとき


大空位時代という出来事として語られるのです。


仲哀天皇の戦死から息子応神天皇の即位までは70年間神功皇后が政務を?


神功皇后は架空だったとか実は応神天皇こそ初代天皇だからということで


この世界史的にみても稀有な超大空位時代をスルーして議論が進んでるような気がします。


神功天皇とすれば空位ではなく、1926年まではそう解釈されていたわけですが。


それにしても成務天皇約40年、仲哀天皇8年、神功天皇70年、応神天皇40年と


あやしげな数字が並びますよね。一人二人抜けていたり余分に入っていたりとかの気配が。


 日本でも神功皇后を天皇(皇后の臨朝)とみなして15代の帝と数えられていた。


 1926年(大正15年)10月の詔書により、歴代天皇から外された[要出典]


武家社会の神である八幡神の母上にあたる聖母神であり、数多くの歴史上の著名な武人が神功皇后を崇拝していた。


ちなみにその時の大臣たちは





















在位期間
神功元年10月2日 - 神功69年4月17日

大臣武内宿禰
将軍武振熊命
先代仲哀天皇
次代応神天皇

景行天皇(第12代)から仁徳天皇(第16代)までの5代に渡り武内宿禰の事績が記されている。


お化けですね。この名前自体が役職というか一族の名前でしょう。


 


ちなみに神功元年は201年ですから。


201年から270年まで天皇だった。


卑弥呼の死は248年。即位はちょど200年前後。


トヨの晋への朝貢は265年。


なんだか卑弥呼とトヨを足したような形でこれはよく言われていたことですが。


でも20歳くらいで仲哀天皇のあとを継いだら90歳くらいまで天皇をやった。




赤ちゃんが応神天皇ですね。


応神天皇(おうじんてんのう、仲哀天皇9年12月14日 - 応神天皇41年2月15日)は、第15代天皇(在位:応神天皇元年1月1日 - 同41年2月15日)


すると応神天皇は70歳で即位したのか?


そして110歳まで天皇でしたと。


河内王朝の始祖の説あり。


やはり神功時代70年は何かありそうですよね。


こんなことも考えられます。




仲哀天皇を倒した邪馬台国は、そこから近畿へ行き、


70年間の闘争ののち、ついに狗奴国=近畿勢力を併合した。、


その地域とそこに至るまでの吉備や周防や四国などと


連合を組んだ。



投馬国が水軍を出して、直方で邪馬台国水軍と合流、そして吉備で


吉備軍を加えて近畿へ。


この時の司令官は吉備を説得して味方にした投馬国の人間だった=神武天皇


神功皇后なる邪馬台国の王が仲哀を倒してその流れで


狗奴国本拠地へ進軍した。


そして狗奴国のバックボーンである新羅を征討ということで半島へ行った。




九州北部でかつて連合を組んでうまくいった経験を生かして


一人の王を冠としていただき豪族たちが政務をとるという仕組み。


それまでの倭から大きくなったから大倭と名乗る。


近畿、出雲、吉備、越、九州と


新たなる大連合だから倭から大倭へ。


ヤマト国が倭王だから(卑弥呼=倭王)、


倭と書いてもともとヤマトと呼ばれ


大倭となってもヤマトと読んだ。




そうするとなぜ北部九州の邪馬台国が


近畿の狗奴国を倒したあとそちらの系列になったのか?


その後


応神天皇というもともと狗奴国の人間が


邪馬台国支配体制の中で邪馬台国勢力を倒して


狗奴国系の人間が再びトップに立った。


敗戦と併合の歴史を隠すために


仲哀の敗死から占領時代の出来事は


神功皇后という架空の人物が統治したとした。




応神天皇は第二次大和朝廷。


第二次狗奴国・。


ヤマト連合の70年間の間に、倭と書いてヤマトが定着していたから


それは狗奴国という国名よりよく


何よりヤマト王は倭王と中国王朝に認められいたわけで


対外的には倭王と名乗るほうが圧倒的に有利だし


連合によりある程度一体化していたから


そのままヤマトと名乗った。


そもそも倭王の称号がほしくて邪馬台国侵略戦争をしかけていたかも。


そうすると一体化したから


武力制圧でなくてトップの座をとりすさえすれば


当初の目的が果たせるという歴史の皮肉なめぐり合わせ。




つまり、


邪馬台国=ヤマトが狗奴国を占領した神功皇后時代。


巻き返した応神天皇時代。


このねじれが日本神話を複雑にした。


記紀を作った時代は狗奴国後継政権ですから


敗北の歴史時代は書かない。


卑弥呼の出来事は書かない。


そういうこと。


狗奴国の歴史が記紀ですね。


占領時代は卑弥呼トヨとあわせて神功皇后年代とした。


 


狗奴国の歴史とは出雲=大国の歴史です。


それを新羅勢力の狗奴国が国譲りさせて、


新羅・近畿・出雲・越連合のような勢力となった。


 


奈良地方を中心したこの勢力を狗奴国と邪馬台国側はよんでいた。


奈良地方から走狗のようにやってきては略奪と侵略を繰り返す敵国。


 


帯方郡から魏軍の支援なしでは国が滅びてしまう危機感こそ


卑弥呼の外交だったのです。


実際に帯方郡の命令のもと半島から


軍団に来てほしかった。


その軍団の進軍ルートこそまさに倭人伝のルートです。


魏の施設は軍事活動の下見に来たのです。決戦地北部九州沿岸まで


水行と陸行で何里なのか?方角は?船は何隻いるか?


補給はどうするか?


そして邪馬台国周辺の国々は?補給基地はどこに置くか?


その観点が帯方郡の邪馬台国レポートです。


対馬と壱岐を完全に抑えるためには沖ノ島あたりまでの制海権がいるとか。


対馬と壱岐そして末盧国のルートは帯方軍団の補給の生命線です。


ここさえ抑えれば、九州沿岸の戦いの情勢にかかわらず安定した軍の活動ができる。万一長期戦になれば必ず武器と行動形式に優れた魏軍・邪馬台国連合軍が勝つ。



現在は外国になったから帯方郡からの軍団は


とても遠くからイメージがありますが、近畿から来るのとそんなに変わりません。


そして近畿の応援部隊が関東から来るのだとしたら、


関東から九州よりも帯方郡からの方が近いですよね。


これほど具体的な近郊からの支援軍の要請、


いやおそらくは懇願こそ


卑弥呼の対魏外交活動だったのです


 


そしてこの戦いは邪馬台国連合の勝利となり、


逆に根拠地の奈良盆地を併合したのだと。


大連合だから、


吉備や越や出雲や周防や投馬や


新羅や加羅や百済や阿波や伊予など、


そして尾張や関東も含んだ大きな


みなで組む大連合だからいまさらこの枠組み自体は


破壊できなくなった。


東連合  対  西連合


つまり


狗奴国=新羅連合と


邪馬台国=加羅の倭地=帯方郡連合


の争いが神功年代に終わり一体化したから


邪馬台国も狗奴国も歴史から名前が消えたのですね。


フェードアウトのように消えてしまった。


すべては神功年代のマジックだったのです。


 


 

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コメント

天地無我

顎上がり、酸欠気味
倭からは、倭王の称号や自国の保護や権威づけのため 対魏外交は重要だった。魏からみた倭国は主として、魏の権威を広く顕示する為のもので列島への進軍は有ったとしても、茶を濁す程度のものと思います。     最初の3~4勢力の図。この様な構図はあったと思います。"狗奴国"勢力圏は列島・大陸共もっと北まで(線の関係か?)
。 どうしても、四国がスッポリと。 どの時代かにもよりますが、鹿児島~熊本も。           雨だれ入力のボク。少佐のスピードに顎アガル。
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古荘英雄

一人灯のもとで古代史を紐解き探求しています。
魏志倭人伝、日本書記、古事記をもとに考えたこと、語りあったことなど
徒然に記します。

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