FC2ブログ

後醍醐天皇と邪馬台国

後醍醐天皇は隠岐に流罪。京都を3月7日に出発して松江あたりに3月21日に到着。


つまり鎌倉時代に、近畿から出雲へは14日です。


これは山陽道と出雲街道を通ったということで道は整備されてますが、邪馬台国がもし近畿にあったら出雲に上陸して


そこから陸行1月とすると、この鎌倉時代に2週間かかった道を倍もかかったことになります。


まさか道なき道なんて歩きませんよ。繰り返し言いますがそんなのきつねでも通りません。

使者たちはゆっくり歩き、泊まるたびに歓迎式典のようなものがあったという説もありますが、各地で歓迎式典ができるような集落が点々とあるようにあなったのは、江戸期以降ではないのか。


 


でも魏の使節が一か月も歩いて邪馬台国に行き、そして戻るわけだからまた一か月歩いたら、必ず何らかの伝承が残りそうなものだけど、神話にもそれらしい記述はありません。


出雲から大和へ一か月歩いて、そして大和から出雲に一か月歩く。途中の地域に伝承が残らないわけはない。


先の後醍醐天皇の場合、中国山地には後醍醐天皇が休憩してお昼を食べるために座った石、などが今でも祀られているし、

隠岐の島には脱出する後醍醐天皇をおんぶして走ったという伝承をもとに、人をおんぶして砂浜を走るという祭りがあります。その名も後醍醐走り?だったか。


魏の使節が日本列島を往復2ヵ月も歩いたら、絶対記憶に残ることだったと思いますね。


でもまったくありません。そもそも大和説というのは、記紀に魏の使節の到来を記載していないこととか卑弥呼が登場しないとか


本質的におかしいと思うのです。解釈は多様であることは承知していますが、何か本質的に無関係のような気がします。


筆者注:この見解は平成26年現在のもので現在は違います



天照が卑弥呼で神話になってるといいますが、239年ころのことです


その時には狩猟採集や、移動して暮らしたわけではなく、


7万戸の本土に加えて5万戸や2万戸の国々を従えて、


さらに半島との航路を末盧国によって保有していた。


親魏倭王の印までもらって文字も使用していたようである。


こんな文明国が神話化することはない。


神話となるのはもっと前の段階です。


シュメール文明は文明となったときには神話があった。


こんな何十万人も米作によって暮らす国で


半島への使節を派遣し、向こうの使者も受け入れる文明国が神話となって、


神々の事績として語られることはない。


そのような考え方もできるのではないか。


世界の神話はどうなっているのだろうか。


インド神話においては、アーリア人の侵入の時に、山向こうのドラビダ人のクニの神は悪神とされていたが、ドラビダ人たちにとっては守護神だった。


この現象は日本神話にも多くあるのだろうか。



だから邪馬台国は日本神話ではない。そして邪馬台国は記紀に明記されてない。


これによって邪馬台国は九州とする一因とする。


という考え方。


そもそも神話ではなく、単純に魏の使節が天皇の都に来たと記載されるはずではないか。


もしくはそれに比定しうる神話のストーリーがあるのではないか。あるとしたら、どの逸話なのだろうか。


などと考えるとまた楽しいのであります



にほんブログ村 歴史ブログ 考古学・原始・古墳時代へ
にほんブログ村

スポンサーリンク

コメント

Unknown

Unknown
ここはもっと、おおらかに曇りガラスを透して見たほうが、よいのでは(記紀が書かれた状況と目的を考慮して)。現在でも、某国あたりは"天安??"を消し去ろうと。また別の某国はこの100年余の歴史を改竄し、すでに国民の大半は改竄されたものを真実と信じている。国際世論も疑問を持ちつつもこれを受け入れている。欧米諸国も都合の悪い史実に蓋をするか捻じ曲げている。しかし、読み解くと真実(必ずしも、1つの事実がすべての真実ではない)が見えてくる。  私は記紀や他の神話にも"史実が潜んでいるかも"との前提を持っています。
  

作者

Unknown
ありがとうございます。ぼくも記紀の神話は実は歴史そのものだと思っています。そして大和王権に不都合なものはかなりのていど、割愛されたり、変更や加筆や省略などあったのだと。
ただ邪馬台国は違うのではないかと考えたのです。邪馬台国レベルに文明化していればそのまま歴史ととして記述され、そして何らかの変更があると。出雲は中身は変更があっても出雲として登場しますが、邪馬台国は存在すらしていない。

天地無我

チョッピリ攻撃的な表現
記紀編纂当時、邪馬台国と魏の関係は不都合な過去と捉えられ、"天・神"に置き換えられている。人間以上に人間ポイ神がたくさん出てきてイマスヨネ。時代が下るにしたがって、人間らしく変化してきます。記紀は周辺事項から本筋を想像した方が面白いと思います。日本の記録では"邪馬台国自体"はないので、某国の言い張ったもの勝ちの様な現象があるのでしょう。戦国大名が家系買いし本当は土豪程度の前身を隠し天皇家や源平を祖先として、権威を保った事と同様では?。
和国の中心は大和であり、九州の田舎のしかも、大陸の下であった部族的クニが前身でははまずかったのでは。 邪馬台国は魏から見た倭国の中心であり、和国を俯瞰して見たときの中心とは別物。近畿論者の誤りはここにあって、倭国を和国と捉え魏史倭国を無理やり和国に当てはめようとし、遺跡についても同様に別物の倭国にはめ込み、考えようとしている。彼らの思索は"プレ大和国"についてであり、それこそ"幻の邪馬台国"です。12000里=九州です。90度方角を変えて解釈して(45度までは可)何が楽しいのか?。


作者

Unknown
なるほど。徳川家も尾張の山奥の村長程度が出身らしいですね、それが松平となり、徳川となり、将軍になったら源氏の長となって、名乗るときはみなもとの、からはじまりましたね。公式には出身の尾張の山奥のできごとなどかけらもない。
うーん、そう考えるとぼくの考えはやや短絡的ですね。
ありがとうございました。
当時は神話でごまかすみたいな。

作者

中国南北朝時代と倭
晋が魏から禅譲を受けました。312年永嘉の乱でほろんで南に逃れ東晋となりその後、宋や梁や陳になりますがその時北朝と倭はつきあいますね。漢民族のクニはここだと。北は匈奴たちが大混乱を200年くらい起こすわけですね。倭からみると、近くの北とは無関係で、遠い南が権威で残る。そして隋、唐は北側のクニでかつての魏いらいの流れと無関係の、漢民族ではない唐民族とも呼ぶべきクニの登場。確かに本来の漢民族との付き合いの事績は白村江の戦いのあとでもあり、抹殺されてやむなしですね。
かつての倭との決別宣言こそ記紀の編集だったかもしれませんね。

ローマ帝国が滅びて遠くの東ローマ帝国が残った構図とこの時の南北朝は似てますね。

天地無我

恥じ入り開き直って
「………」。
反応したいのですが、勉強不足で。申し訳ナイです。すみません。









作者

Unknown
つきあってのたの
は南朝の方です。
間違いました。

漢文趣味でこの時代の漢詩を読んで知ったのです、歴史からの入口ではなく。
このころ洛陽近辺の漢人は大挙して江南、揚子江に逃れ、東晋をつくったらしく、一説だと唐になったころは漢のころの中国人は10分の1になったとか。別の民族の文明ですね。この大混乱が見事に空白の4世紀をつくってしまたのは残念です。漢人同士のセ英検交代なら記録もつづいたでしょうが。

転痴夢画

脱線。気づいたら異次元
命題からずれますが…。大陸の大小某国の数字表現は膨張しますヨネ。0が1つ多いのではトカ?。赤○の戦い100万人とか。ここ100年内の出来事でも。現在でも大某国の経済統計も。   人口が10分の1は夫々のカウントの仕方の相違とか、上記の膨張率の差とか、対象母集団(国域)の相違とかがあったのでは。    大某国は異民族に征服され、また逆に追い出し制圧しの繰り返し。最近では戦った国○党を追い出し、傍観していた共○党が本家顔。"ナカハラ?"の地に高度な文明が続いたことは認めますが、現在の本家が言う"ナカハナ3000年の誇り"とは???。某小国の木星歴は繁栄の歴史でしたが、王朝や王変わるごとにすべて廃棄破壊したのか、大某国からの"○恩門"以外の文化遺産は皆無状態。差が有り過ぎ!!!。  話が異次元へ行ってしまいました。

作者

Unknown
本当ですね、重要な視点ですね。1000万人と言ってるの聞いて驚いたと思ったら今は1500万人。でもきっと自分たちの大混乱では一人も死ななかったといいそうですね。
そもそもご指摘の通り、大月氏国や草原やイスラムなど編入してたりまえ。
倭人伝も漢民族が書いたと考えたら、いやあどこまで信じられるかなどと。
あの木星の古代文学とは、何かあるのでしょうか。
あの木星は最初から支配されて一体化していればお望み通り大国で、いろんな起源をもっていましたね。
木星では、ひとりのかんぱくがそれまでの木造建築のすべてを燃やしたと言ってます。
そのあと作らなかったのかと思うのは火星人だけでしょうか。優秀な人物はすべて帰化人でやまとへ、などと思ってしまう。
休戦状態の敵国と、一緒になって同盟国の悪口をいうのは新羅の血でしょうか。

天地無我

脱線を反省、ややマジメに脱線
10分の1は、母集団(国域)相違でしょう。当時は当時で夫々の"くくり"があったのでは?。    利休の取り上げた井戸茶碗、柳宗悦が見出した諸朝鮮民芸、本当に素晴らしい"モノ"です。李三平の息吹ある草創期の伊万里焼もです。(魅かれ、数点所有=もちろん安物ですが) あの優れた彼らはいずこに???。残念です。今彼らに求められることは本当の、自尊心と自立・自律でしょう。(韓国のモノづくり・クニづくりにも言えます。)

作者

偏見に満ちた客観的史実
占領ばかりがクローズアプ。400万人が死亡する内戦とはどんな傷跡が残るか。内戦がなくずっと統一国家ならば・・・
常に社会に浸潤するスパイ活動。
東洋的な日々から近代化へのプロセス=日本時代というのは、重要な青年期の記憶が忌まわしいものになってしまい、
言わば国家としての近代的自我形成の記憶に日本が入らざるを得ず、分裂してしまう。そこで否定することで自我の安定をはかる、しかし心理学的には、それを認め、自我を統合する以外に道はない。青年期の楽しい記憶がすべて屈辱になっているがよくながめるとそんなことはないのだから。
日本による近代教育、近代国家の中での活動、国会議員の派遣、華族列席、鉄道などのインフラとその運用というソフトの設置、民法や刑法、近代化をやりその近代化社会のなかですでに近代人として暮らした。そのコアとなる経験により、戦後の発展がある。このこと自体は歴史的事実でありそれこそが屈辱の根。
半分は、北の工作が思わせた、全斗煥大統領は日露戦争当時の韓国の政策が甘かったこともあり植民地にとい公式の場で発言している。
普通の人間が普通に考えたらもっとも憎みべきは、朝鮮戦争を起こした毛沢東と支援したスターリン。中国とロシア。憎んでも憎みきれないだろう。1500万人が華族生き別れとなり、400万人が死亡し、国は二つになった。
その歴史教育はどうなっているのだろうか。
その出来事の前の日本がターゲットになるのは意図的な工作だろう。
なぜ休戦しているだけの毛沢東の後継者と日本の安全保障を懸念するのか。
663年に百済が支援に来た倭軍28000人を見て、唐と一緒に、倭の水軍が多すぎるとと文句を言うようなものだ。

天地無我

脱線。慣性の法則でもう一度
朝鮮国は、漢からの迫害は歴史的に抵抗なく、極自然に受け入れる土壌が形成されていた。弱者が自尊心を保つため、他に更なる劣位者を位置付けていた。ある日突然、その劣位者が、自分を遥かに超え・また崇拝すらしていた歴史的強者をも超える強者として君臨してきた。屈辱感・辛うじて保ってきた自尊心の全壊。  「恐れられよ。侮られるな。憎んでも強者には従う。愛していても弱者には迫害を加える。」「君臨し国をまとめるため、共通の敵を創れ」。韓国の歴史的土壌から、優しい島国日本はこの君主論的隘路に嵌り込んでしまった。同時に韓国もここに至り、自己矛盾の輪廻状態に追い詰められている。   「自尊心の壁」を打破して本当の自尊心を得て欲しいものです。     
非公開コメント

古荘英雄

一人灯のもとで古代史を紐解き探求しています。
魏志倭人伝、日本書記、古事記をもとに考えたこと、語りあったことなど
徒然に記します。

スポンサードリンク

プロフィール

古荘英雄

Author:古荘英雄
一人灯のもとで古代史を紐解き探求しています。
魏志倭人伝、日本書記、古事記をもとに考えたこと、語りあったことなど
徒然に記します。

ブログ村ランキング参加中

ブログ村古代史ランキング参加中

PVランキング参加中

ブロとも申請フォーム

検索フォーム

QRコード

QR