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「日本古代史 卑弥呼と邪馬台国を探求する」グーグルアースでなぞる魏志倭人伝= 邪馬台国は平野の王国

 このブログを始めるきっかけは、倭人伝をグーグルアースでなぞったことです。


当初のころより考えががらりと変わったり、地図加工がまずかったりしたこともあり、


最初の驚きを改めて編集してみました。


 


グーグルアースの画面の中で・・・・・・


博多湾から有明海に至る山々を縫うように広がる平野。


驚いた!!!


なんだこんな簡単なことだったのか。この平野が古代の米づくりの舞台。


倭人伝の陸の行程はこの平野を博多湾から有明海に移動したに過ぎないではないか!!!


*グーグルアースとはつまり衛星写真ということ


 


朝鮮半島南岸からグーグルアースで使節団の視線で行程をたどります。地図の北を下にして南を上にしましょう。


向かう先を地図の上にみるのが旅行者の心理でしょう。道路マップもそうですよね。


 


さて1000里で対馬。それから「南」に千里で壱岐。


ここまではほぼすべての学説でも異論はありません。


問題はここから。使節団の気分で。グーグルアース見ながら。


壱岐からは方向を書かずに、また海を千里と書いてます。


九州北部の最短で唐津湾を想定する話がおおいけど対馬、壱岐間と同じ距離を進んだと言ってるんです。それに、唐津湾に上陸して博多あたりまで歩いたという説が多いけど・・・・・・・


そもそも帯方郡から船で朝鮮半島沿岸沿いに進み、そして対馬へ壱岐へ九州へたどりついた船乗りたちが、唐津湾で上陸しないですよ。


帯方郡の御用船でやってきて、当然船でいけるとこまで船で行きますよ。博多湾という島々や海の中道に守られた穏やかな海が隣にあるので歩くわけない。



 それに紀元前後の頃から、宗像は沖ノ島を中継点にして、半島までの海路をもっていた。つまり対馬海峡にはこの海路を行き来する航海技術があった。すぐそばにこんな海路もあるのに、壱岐からあと、唐津湾に近いからという理由で行くでしょうか?


志賀島に停泊すれば小舟で一時間で博多湾に到着します。


唐津に停泊すれば博多湾まで歩いて一日以上かかります。


古来より、志賀島は半島、大陸への出発地だったと言われている。


海神神社の総本山まである。


次にそこから東南に500里で伊都国。


グーグルアースの真骨頂はここからです。博多湾からは見事に平野が東南に伸びているのがわかります。


500里、壱岐と博多湾の長さの半分と考えるとそこはちょうど大宰府です。そしてここは東西の山に挟まれたあたりです。伊都国には一大卒があり、北部を抑える拠点にして外交団を迎える地域。やってきた人はみな伊都国によると。ある。


博多の平野から佐賀平野に行こうとすると、平野のくびれの大宰府を必ず通るのです。


 赤い線は川です。


さて伊都国からさらに東南に100里で奴国。ここは2万戸もあります。大宰府の東南は山のくびれの向こう側。佐賀平野が始まるところ。朝倉郡です。


そしてその東側100里に不弥国というのは、朝倉郡の平野のすぐ東隣に、グーグルアースで見ると小さな平野があるのです。そこは日田です。


日田は北部九州の他の平野、直方平野、大分平野、宇佐中津平野へ川が伸びる。景行天皇も筑紫平野から日田に行き、宇佐に抜けたりしている。日田は交通の要衝ですね。


日田を拠点にして他の平野と頻繁に行き来する。のです。


この100里は奴国の東の端の国境から100里ということ。中心ではなく。だから山をはさんで隣接しています。近いです。


 


この位置にしてドンピシャとはまる記述です!!


 


グーグルアースでみると使節団の陸の行程はきっちりと、山をぬって広がる平野にそっているのがわかります。しかも川沿いに。


というより、倭人伝に沿っていくと国々の位置にちょうど平野があるのです。そこでその平野の場所を確かめると、


大宰府だったり日田だったり、筑紫平野だったりと・・・・・・


伊都国に至っては国際港、志賀島を管理防衛する場所だったような。御笠川を下ればすぐに博多湾。そして福岡平野と筑紫平野の連結点だから両方の平野を守れる。博多湾からの敵から、筑紫平野を守ることもできる。大宰府の場所が伊都国ですね。


福岡・筑紫・佐賀平野は60億坪です。現代農法ではすべてを農地にすれば1000万人分のコメが作れる。半分の土地で10分の1の生産性でも50万人分のコメが作れる。


 


女王国の東側、海を越えて1千里というのは・・・・・・・


邪馬台国連合の領土は北部九州全体です。


したがって女王国の東の端は宇佐。すると海の向こう1000里の場所は地図で見ると周防です。


本州であろうと、この宇佐から海を見ると(ぼくはこの辺に住んでました)海の向こうは周防あたりというイメージがありますね。


本州の地図が頭にない当時の人にとって、周防に船で行くとき、周防は海の向こうの国に違いありません。


「海の向こう」を考えるとき、こちらとあちらは陸路つながってないはずということで「は九州四国があちら」。または四国がこちらなら東のあちらは和歌山あたりという思考法がありますが、宇佐、周防も十分に当てはまるのです。


するとその南の国は四国ということでぴったりはまります。



そして水行陸行の話です。


要するに、邪馬台国への、行きと帰りで、道が違ったということです。


そのどちらもそれぞれの公式ルートだったのです。


海の民倭人は、博多湾から半島に向かうときは博多湾から出発するが


有明海から帯方郡に向かうときは、当然有明海から直接出発する。


行きは、倭人伝に書いてる通り。ただし、東西に並んであった投馬国5万戸と邪馬台国7万戸に、その両方に使者は訪れた。


両方がゴール。


だから帯方郡までどうやって帰ったかまで実は書いていた。


「南投馬国に至る」 でゴールです。そしてさりげなく簡潔に帰路を書いた。


「 水行20日」    帯方郡まで有明海の投馬国の港から船で20日かけて帯方郡に帰った。


「南邪馬台国 女王の都に至る 」 これでゴールです。到着した。そして帰りの道のりを書いた。


「水行 10日  陸行1か月」有明海の邪馬台国の港から帯方郡に船で帰ろうとが


投馬国から出発した船団と違って10日目に半島に到着。そこから帯方郡までは歩いて1月かかった。


 


水行20日と水行 10日  陸行1か月の距離は同じでしょう。陸行1月は30日。


つまり船の10日と歩いて30日は同じ距離。船はずっと移動しますからね。


 歩いて一か月もかかる必然は列島内にはあたりません。半島だけです。


地図を見ると、九州から半島へは目印が巨大ですから簡単ですね。


半島から有明海へは有明海への入口がピンポイントだったりで難しい。


でも有明海の人は半島へは対馬を経由せずにもいってたでしょう。


そもそもこれだけ船で移動する人たちが、必要もないのに陸を歩くわけはない。


日本国内にも半島にも1月も歩く必然性のある場所はない。たいてい船でいく。そして船の通らないところを歩く。


そうするとどこもかしこも10日もあるけば十分です。


海神族倭人の航海技術を正当に評価すると、こんな考え方ができると思います。


 


 


 


 


 


 


 


 

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古荘英雄

一人灯のもとで古代史を紐解き探求しています。
魏志倭人伝、日本書記、古事記をもとに考えたこと、語りあったことなど
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