FC2ブログ

志賀島を末盧国と考えてみた 

漢から金印をもらったわけですが、


その日本側の出港の場所はどこでしょうか?


倭王スイショウの使者はどこから旅だったか?

107年の時の出港地もまつろ国でしょうか?


それが唐津湾でしょうか?



奴國は博多湾岸を比定する人がおおい。


そして志賀島で金印が見つかった。


志賀島は古来、半島大陸への渡海の基地だった。


そして全国の綿津見神社の総本山があります。綿津見は海神、渡海とも書けます。


対馬海峡の最大のキーポイントの場所のような気がします。


あるサイトの紹介です


邪馬台国の卑弥呼時代よりも更に古い時代に、列島や大陸を船で行き交った人々がいました。志賀島という福岡・博多湾の入り口でもある要所に住み、大陸との交易や漁労を生業とした海人族、それが阿曇族です。優れた船舶技術を駆使して列島各地を渡り、全国に30か所ほど残る「しか・あづみ」の地名はその足跡を示していると言われています。「安曇、あずみ」と表記する地域もあり、代表例は長野県安曇野市です。安曇野市と福岡市の間では交流も盛んです。阿曇族が活躍した時期は紀元前と言われ、その子孫としては、663年白村江の戦いにおける阿曇比羅夫たちの存在が知られています。長野県安曇野市の山奥にある穂高神社で行われる「御舟祭り」や、「御船神事」は、かつて海人として活躍した阿曇族の名残りを示すものとも言われております。



 


であるにもかかわらず、糸島を歩き唐津湾まで行って


そこから船に乗るでしょうか?


奴國は志賀島から半島に出発したことでしょう。


そして金印を持ち帰ったことでしょう。


だからこそ志賀島で発見されたのです。


金印公園金印発見場所です。


博多湾や博多平野は湿地状態で大型船の停泊が難しいという話がよくありますが


志賀島は最適です。山の縁に港がある状態でまつろこくの表記に似ています。

志賀島は博多湾を向いている方は波が穏やかであり

外海の方は荒い。

なので

香椎あたりから湾内を小さい船で志賀島に集まり博多向きの港に泊めている大船に乗って

まず糸島半島へ行き、

そこをなぞるように走って壱岐へと向かう。

これこそが古代の半島へのルートでしょう。





白村江の戦い における倭軍の進路です。


古来、唐津湾から半島の水路が対馬海峡の大動脈なら、この時代においてもやはりそのはずで、博多湾から糸島に行き、かつての伊都国には迎賓館の施設があったわですから、兵士がやすみつつ、次々に唐津に歩き、旧まつろ国の港から、どんどん半島に船を出すでしょう。


よく地名は残るから、地名が古代探索のキーとなるという話があります。でもぼくは、その場所の役割というものも残ると思う。特に港というのは残るのではないか?志賀島は28000人もの兵を7世紀に半島に送る出せるほど、船の出発点として適していた。当然、当時においても古来より、志賀島から壱岐や対馬への航路は確立されていた。


ある時点までは唐津湾が主で、突然志賀島にはならない。


水路、航路というものが生活の中で確立していくからです。


それに地名は残るとというが残らない地名もたくさんある。


現に太宰府という場所は官名、役所名がそのまま地名になっているがそれ以前の、本当の地名は残っていないわけです。


邪馬台国傍国の国々もほぼ現在に繋がってない。


安定した停泊地志賀島。ここに来れば、博多湾が沼沢地でも大型船は志賀島。志賀島から小舟や徒歩で博多湾。この小舟や徒歩の部分はせいぜい、1時間です。唐津湾に停泊すれば博多湾まで山のせり出した、海岸を半日から1日歩くのです。


一体そんな不合理な行動をするでしょうか?


博多湾に国があれば、間違いなく志賀島が出発点。まつろ国しかり。そして、漢倭奴国王の金印はまさにこの志賀島から出ている。


志賀島を領有する奴國は糸島から唐津に歩いてそこから半島にいくなどと、馬鹿なことはせず


志賀島に小舟で行って、そこから渡海用の船を出した。


間違いないと思います。


 


  そうすると


奴國を傘下に治める邪馬台国が


半島や大陸に船を出すときはどこから出発するか?


志賀島でしょう。



志賀島から博多を眺める風景です。ここに到着したら、奴国全域をこうやって見れるわけです。


この人間の受ける感じ方を馬鹿にしてはいけません。


半島まで行ったらその人はここに帰ってきたいでしょう。ほっとするふる里、本拠地の風景。


明治にヨーロッパに行った人たちが瀬戸内海に入って日本に帰ってきたと感じ入るという話があります。


唐津湾について二日近く歩くのは人間の心理からいって、選択肢ではない。


ここが末盧国でしょう。


ちなみに写真中央部に


左右からせりだす山がとぎれているところがありますね。


あそこまでちょうど倭人伝の縮尺で500里です。


しかも方角は東南です。



どんぴしゃなんですよ。ピンポイントで。


そしてあの山のとぎれたところは太宰府なんです!!!!



そしてその向こうに広大な筑紫平野と佐賀平野が広がるのです。まさに邪馬台国への行程ですね


伊都国目指して山の門に向かって御笠川沿いを歩いたことでしょう。あれが山の門に見えたらその向こうの筑紫平野の国を海からは山の門の向こうの国。山門の向こう。ヤマトの国とよんだかも。


 


それほど風景にインパクトがあります。だって、当時はこの写真の建築物はすべてなくて平野の向こうにただ山がくっきりあっただけですからね。


 


邪馬台国時代は志賀島はまつろこくと呼ばれ、奴國から独立の邪馬台国直轄地のような渡海拠点になっていた。


半島への基地は直轄ですよ。長崎が幕府直轄であるかのように。


そしてその南に奴國があるが港基地まつろこくから博多湾博多平野に向かって安定した陸地のあたりが伊都国。これは太宰府あたりに


やはり直轄地がある。マツろ国と伊都国のラインは直轄地ラインですね。港とそれを管理する場所。


そしてもともとそれは奴国だった。


邪馬台国時代の奴国は、


港のまつろ国と港湾管理と防衛の伊都国を邪馬台国に献上し、


それらの南に居住地として存続していた。


2万戸数の農地ですね。金印時代は博多湾を傘下に収めていたが、このころは博多湾は邪馬台国のもので、奴国は朝倉平野の農地としてあった。そして奴国の南に邪馬台国と投馬国はあるのですね。



すなわち、筑紫平野が邪馬台国で佐賀平野が投馬国です。もう一つの直轄地不弥国は日田です、森林伐採して木材を筑後川経由で朝倉、筑紫、佐賀平野に運ぶ。かつ河川を通じて、直方平野、宇佐平野、大分平野と結び、くな国の熊本平野からの防衛拠点としても重要だった。


戸数の少ない国は港、港の管理防衛、防衛と資源採取のために独立の直轄地だった。こう考えるとすっきりしますね。



だいぶ前の記事なので、考えが変わったところもあります。


 

スポンサーリンク

コメント

非公開コメント

古荘英雄

一人灯のもとで古代史を紐解き探求しています。
魏志倭人伝、日本書記、古事記をもとに考えたこと、語りあったことなど
徒然に記します。

スポンサードリンク

プロフィール

古荘英雄

Author:古荘英雄
一人灯のもとで古代史を紐解き探求しています。
魏志倭人伝、日本書記、古事記をもとに考えたこと、語りあったことなど
徒然に記します。

ブログ村ランキング参加中

ブログ村古代史ランキング参加中

PVランキング参加中

ブロとも申請フォーム

検索フォーム

QRコード

QR