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地図で勝手な想像をする日本古代史~これは趣味の遊びですから~

豊前の海岸は瀬戸内海への表玄関


景行天皇の九州親征図です。巡行といいますが征服です。
景行天皇は九州方面の国造に、大和朝廷からの赴任する国造に地位を譲るように命じましたが、九州の国造たちはその命に従わず、反逆にでました。景行天皇は反逆する国造を平定するために九州地方に巡幸した。
豊前の海岸に上陸して九州南部、中部を進軍していきます。
まずこの豊前上陸ですが、この時代、古代においては関門海峡を渡って九州に来ることはあまりない。
周防と宇佐、あるいはこの図のように豊前の海岸に上陸するのです。
これは神武東征の逆ですよね。宇佐から周防へ。神功皇后も宇佐から周防へ。
この宇佐から豊前の海岸地域は九州の瀬戸内海への表玄関だったのですね。

ダウンロード (3) 
この図にはありませんが上陸してすぐに筑豊の田川郡あたりを制圧しています。岡田宮の近くです。

九州の勢力が感じる景行軍とは?

この図を見るときに、ぼくなどはこんなバイアスがいつのまにかかかっている
日本はヤマト王権が統一した。
だから九州や東北に遠征して制圧していった。

これで終わると大事なことを忘れます。それは地元の勢力の気持ちというか状況です。

九州の勢力からみれば瀬戸内海の向こうから豊前に上陸した軍は征服する悪魔のような敵ですね。
そして豊前上陸の情報は各地に流れたことでしょう。
そしてその軍の駐留先も九州各地の豪族たちは神経をとがらせて情報収集していたでしょう。
これはいったい何人の軍団だったのでしょうか?
どれくらいの戦死者が出たのでしょうか?

この大和からの大軍団がずっと九州各地にいるわけです。なんてうっとおしい、怖い存在だったかと思います。

奴国より北には行ってない

邪馬台国時代の奴国、今の大宰府から北のゾーンには一切行っていません。最後は筑紫平野の朝倉郡を通過して、そこから日田に入り、宇佐へ抜けて大和へ帰っていくのです。
博多湾沿岸諸国は反逆に加わっていなかったのでしょうか?
でも景行天皇の息子の仲哀天皇はまさに、この時に行かなかった博多湾沿岸諸国制圧に軍を出し、香椎の宮で死んだことになっています。

するとこうは言えないでしょうか。
景行天皇は南部中部九州は制圧したが、北部の博多湾沿岸諸国は強力過ぎてこの巡行では手を出せなかった。もし勢力家なら大遠征が終わって、福岡平野の国々で休息して帰りそうなものですが、日田から宇佐へと山越えでかえっていくのです。日田から宇佐は、かなりの山道で江戸期でも川に落ちて死ぬ人間が多かったのです。
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上図で言えば奴国、伊都国、不弥国があったゾーンにはまったく行かずにきっちり筑紫平野で終わっています。


そのときの博多沿岸諸国とは何か?
もう一度巡行図を。
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博多湾岸勢力はこのとき反乱勢力であったと思うのです。
前述したようにだからこそ時代の仲哀と神功皇后がやってくるのです。
(神功皇后をもともと九州の王とする説をとるとまた違う展開になりますけど今回はヤマトから来た人たちとします)

すると景行天皇の大軍団を
博多湾岸諸国はどうみるのでしょうか。
強力な侵略軍が筑紫平野にいる。
大宰府のくびれの平地から福岡平野にやってくると大戦争になる。

しかし景行天皇の軍団は行きませんでした。
想像ですが、この時の湾岸諸国は半島勢力に支援軍の要請などをして、臨戦態勢が整えていた、そして対馬海峡の制海権を完全にもっているから、半島の軍団が実際に来なくても来る用意があるというブラフをすれば、景行軍団への抑止力になった。

邪馬台国VS狗奴国に似ている

この構図、どこかで聞いたことがありますね。
邪馬台国が南の狗奴国と戦争状態になるので、帯方郡に支援を要請し、果ては洛陽にまで支援を要請した話と被ります。
そして倭人伝には
狗奴国は九州の国であるとは書いてない。九州の人間だとも書いてない。ただ女王国の南に位置するとあり、奴国の南側に位置しします。
さて、奴国は現在の大宰府から春日あたりと想定されることが多いですが、すると
景行天皇の軍団の制圧した地である筑紫平野と接しているのですね。
まさに景行軍は、女王国の南側に位置して駐留しているのです。

そうするとこの景行遠征軍こそが狗奴国であり、狗奴国とは国ではなく駐留軍のことになります。
しかしこの全体像を外国から見ると
女王国の南には狗奴国があると
いう表現になってもおかしくありません。

この時は邪馬台国は狗奴国の侵略から防衛できましたが、次世代の神功皇后によって滅ぼされたのかもしれません。
神功皇后が三韓征伐をした最大の理由は水軍国家邪馬台国の支援をやめさせることです。
制海権をとり、支援をやめさせたうえで、タブ辣媛の誅殺をするわけです。つまり卑弥呼の殺害です。
そして神功皇后はしばらく九州にいるのですが、これは外国からみれば卑弥呼の後をまた女王が継いだと見える、つまりトヨとは神功皇后ということになります。親魏倭王を殺したというのは魏にはばれたくないことでしょう。

景行天皇の帰路が神武東征にそっくり

下図は神武東征図です。
九州での移動は景行天皇の移動図にかなりかぶります。岡田宮に行くのは景行天皇が最初に侵略したのは田川だからだいたいあの辺です。
そして宇佐から帰ります。日向にも行きました。
もしかしたら
景行天皇が軍団を率いて奈良に戻ると、その地も反乱だったのかもしれません。ナガスネヒコとニギハヤヒによる反乱が起こっており、九州から帰った景行軍は、熊野から迂回して反乱軍を鎮圧した、
そして新しい大和を作った、その逸話が神武東征かもしれません。

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古荘英雄

一人灯のもとで古代史を紐解き探求しています。
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