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海路からみる倭の五王と九州王朝と遣唐使

遣唐使


630年から838年まで遣唐使が唐に行きました。

12回説 14回 15回 16回 18回 20回説などがあります。
計画はしたけど中止になったものや、渡航しようとしたけど難破して到着できなかったものなど
そういうものがあるので回数を測り方が難しいのでしょうか?
いずれにしても
最低でも
12回は行ってる。
さて約200年の間に12回。

当初の航海は
半島から黄海をわたって山東半島へ行き、そこから南下してましたが
やがて半島経路が使えず
東シナ海渡海航路となり相当難破しました。
行きは難破しても大陸に漂着してましたが(空海もそうでした)
帰りに難破すると太平洋に流されたり
沖縄諸島で足止めとなったり
相当な量の貴重な仏典や仏像や文物が海の藻屑と消えたわけです
300px-Kentoshi_route.png 
ちなみに往路で沖縄諸島経由というのは難船状態で流された時であって
本来はあくまで五島列島あたりから大陸を目指していたとのことです。
遣唐使というのは
100年で20回のチャレンジで12回の成功という散々な航路だったという見方もできます。
アポロ計画のような決死のプロジェクトです。
行きはよいよい帰りは怖いの典型例ですね。

その前の遣隋使

ところがその前の遣隋使。
聖徳太子が始めたとされるこの航海は
遣唐使に比べて破格の頻度で、かつ成功しています。
600年(推古8年)~618年(推古26年)の18年間に5回以上派遣されている。
この時の海路は高句麗とも親しかったことから
おそらくは朝鮮半島を北上し、
黄海が、一番狭い遼東半島と山東半島の間を渡海したのではないでしょうか。
遣隋使 赤で囲った航路なら有視界の航海ですからほぼほぼ難船はしないでしょう。

遣唐使に比べて3年に一回以上の頻度で行われた遣隋使。
第一回めの記録としては有名な天皇の姓名の名乗りがあります。

「開皇二十年 俀王姓阿毎 字多利思北孤 號阿輩雞彌 遣使詣闕 上令所司訪其風俗 使者言俀王以天爲兄 以日爲弟 天未明時出聽政 跏趺坐 日出便停理務 云委我弟 高祖曰 此太無義理 於是訓令改之」

開皇二十年、俀王、姓は阿毎、字は多利思北孤、阿輩雞弥と号(な)づく。使いを遣わして闕(けつ)に詣(いた)る。上、所司(しょし)をしてその風俗を問わしむ。使者言う、俀王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天未(いま)だ明けざる時、出でて政(まつりごと)を聴く。日出ずれば、すなわち理務を停(とど)めて云う、我が弟に委(ゆだ)ぬと。高祖曰く、此れ大いに義理なし。是に於て訓(おし)えて之を改めしむ。

これによって国際的に認知されるには制改革を行う必要が発生して、聖徳太子と蘇我氏による行政改革が行われたとする説もあります。
その後2回目に例の  日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。恙なきや。
と記載された文書を隋に送ります。遣隋使のやりとりは歴史に残るやりとりですね

そもそもの海路開拓は南朝詣で

さて遣隋使や遣唐使は有名ですが
倭の五王による南朝詣では遣唐使も遣隋使も凌駕するのです。
海人族である倭人の面目躍如たるところです。

その数は
413年から478年までの65年間に11回。
*479年に倭王の武を「鎮東大将軍」502年に倭王武を「征東大将軍」に進号したときにも来朝したとする説もある
65年間で11回ということは6年に1回は倭から長江流域にいったことになります。

南朝と六朝について整理すると
311年に洛陽が陥落して魏の後継国晋が滅びます。
このあと洛陽をはじめ黄河流域は五胡十六国時代となり漢民族の膨大な数が
難民として長江流域に逃れます。そして王族は国をたて
東晋と名乗ります。都は建業(健康)
その後禅定に次ぐ禅定で(クーデターが後をたたない)
東晋➡宋➡斎➡梁➡陳となり最後は隋が統一します
この5つの王朝を南朝といい そのまえの呉もいれて六朝と読んだりしますね

200年間に20回計画して12回成功した遣唐使と比べると
とんでもない航海術であるとも言えますね。
実際には海路がよかったということです。
南朝詣で拡大 半島沿岸海路で全部行ってるんですね。遣唐使とは航海の安全度合いが全然違います。
ところでこの11回の南朝、この時代は宋でしたが、この対馬海峡を渡るときには
志賀島➡壱岐➡対馬→半島なのか
それとも
宗像→沖ノ島→対馬→半島なのか
興味深いところです。
後者であればだからこそ沖ノ島は島自体がご神体であるとなります。
しかしたとえば倭の五王は九州王朝の王だったというのが
仮に真実ならば
壱岐経由となるでしょう。
沖ノ島を使う理由は奈良や出雲から半島に行くときに近いからです。
九州からなら志賀島発になるのではないか

やがて高句麗が邪魔をするので

さてこの安全な航路を高句麗が邪魔をするようになります。

「5世紀の朝鮮」の画像検索結果

こんな風に高句麗は百済を圧迫して南下してきます。
すると倭国が南朝に行く海路が閉ざされてしまうのです。
高度な政治的かけひきが5世紀の半島で行われていたのは事実ですが
単に航海の邪魔をされて困っていたというのも事実ですね

下の地図でみると赤ラインで航海できていたのが黄色ライン、いや百済が押し込められたときは黄色よりも下から渡海しないといけなかったと思います。
この海路問題は百済も南朝に詣でていたから百済も同様の問題を抱えていたはずですね。
南朝詣詳細

日本側が高句麗の妨害に困っていたという証拠は記録が残っています。
「倭王武の上表文」です。

この上表文は当時の倭国の事情を伝える資料として有名ですが書き出しのばかりが注目される傾向があります。
「東は毛人もうじんを征すること五十五国、西は衆夷しゅういを服すること六十六国。渡りて海北かいほくたいらぐること九十五国」

大和王権の支配領域を示すとされています。古田武彦さんはこれを大宰府首都の九州王朝の支配領域だと以前は書かれていました。


この後半に
高句麗が南朝へも航海を妨害するから何とかしてほしいというくだりがあります。
というかそもそもこの上表文はそのためにかかれているようですね。
出だしは現代のわたしたちに資料的価値があるだけで
大事なのは高句麗に航海の邪魔させるなってことです。


封國偏遠,作藩于外,自昔祖禰,躬擐甲冑,跋涉山川,不遑寧處。東征毛人五十五國,西服眾夷六十六國,渡平海北九十五國,王道融泰,廓土遐畿,累葉朝宗,不愆于歲。臣雖下愚,忝胤先緒,驅率所統,歸崇天極,道逕 假授百濟,裝治船舫,而句驪無道,圖欲見吞,掠抄邊隸,虔劉不已,每致稽滯,以失良風。雖曰進路,或通或不。臣亡考濟實忿寇讎,壅塞天路,控弦百萬,義聲感激,方欲大舉,奄喪父兄,使垂成之功,不獲一簣。居在諒闇,不動兵甲,是以偃息未捷。至今欲練甲治兵,申父兄之志,義士虎賁,文武效功,白刃交前,亦所不顧。若以帝德覆載,摧此強敵,克靖方難,無替前功。竊自假開府儀同三司,其餘咸各 假授,以勸忠節。

高句麗を何とかしてほしいという部分の現代語訳 赤字部分➡引用元

私はおろかしくもその器ではありませんが、かたじけなくも王統を継承しました。
  統治するところを率いて天子にお仕えしようとし、百済からなおはるかな道のりゆえ、
  航海の準備もおこたらなかったのです。

  しかるに、〔高〕句驪(「驪」は高句麗をおとしめた貶字(へんじ))は、理不尽にも〔百済を〕併呑しようと企て、
  辺隷(中国の辺境の意で、ここでは百済を含む朝鮮半島南部地域をさす)を掠抄し、
  殺戮をやめようとしません。

  〔わが使者を天子のもとに遣わす〕たびに、途中で〔高句麗に〕押し止められ、
  良風(年限を違えず朝貢する美風)を失っています。

  海路を進むことがあっても、あるいは通じ、あるいは通じえないありさまです。

(3)私のなき父の済は、〔高句麗が〕入朝の海路をふさいでいるのをいきどおり、
  戦備を整えた100万にものぼる兵士たちも義声をあげて感激し、
  大挙出征しようとしていましたが、そのとき、にわかに父(済)と兄(興)とを喪い、
  まさに成就せんとしていた功も水泡に帰してしまいました。
  〔私は〕諒闇(君主が服喪する部屋)にこもって、軍隊を動かせず、
  これゆえにいたずらに安息して、いまだに〔高句麗に〕勝利していません。
(4)今にいたり、甲を練り、兵をおさめ、父と兄の遺志を継ごうとしています。
  節義ある人士も勇猛なる軍隊も、文官も武官も功を立て、
  白刃が眼前に交わろうとも顧みはしません。
  もし皇帝の四海を覆う御徳により、この強敵(高句麗)を打ち砕き、
  わが国難を除いて太平をもたらしていただけるならば、
  歴代天子への忠誠をかえることはないでしょう。


有視界航海の時代の海路とはつまり沿岸ということ


黄海を横断するのは、やはり有視界航海でないと危険だということなのです。
日本が大陸勢力に詣でるときは
必ず半島を通らねば 遣唐使でわかるように危険すぎる航海になってします。

この点
半島をを利用して有視界航海ができていた倭の五王の南朝詣で、遣隋使、初期遣唐使は
まずは航海は成功していたわけですね。

ところで11回も仏教がとてつもなく盛んな南朝の首都に行きながら
日本に仏教が公伝されるのはその100年後、公伝とろか一般的伝来さえ
ほぼなかったようなのですが
これをもってそんなことはありえないから
南朝に詣でていたのはやはるい九州王朝で仏教は九州には来ていたという
そんな説もあります

倭の五王は仏教になんの関心も示さなかったとしたら逆に不思議に思うことでもあります。


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古荘英雄

一人灯のもとで古代史を紐解き探求しています。
魏志倭人伝、日本書記、古事記をもとに考えたこと、語りあったことなど
徒然に記します。

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