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真実の壬申の乱

白村江の大敗戦


白村江の戦いが663年。
 
天智天皇崩御が672年1月。

壬申の乱が672年7月24日から8月21日。

まずこの3つの時系列が大事です。
白村江の大敗戦。朝鮮半島まで2万人を超える兵を出して完敗。
動員した兵力はさらにあと3万人くらいいて、半島にいくはずだった。
動員兵力は5万人にも及ぶ。
そして動員には相当時間がかかり二年くらいもかかったようです。

s-1312historicalcafe-1.jpg 

このことから何がわかるか。
当時は明治以来の近代国家ではないから、中央集権的に徴兵令によって
それだけの動員ができたわけではないということです。
当時の人口推定は500万人。
5万人近くを動員したということは人口の1/100
これを現在の人口に直すと
なんと100万人を動員して50万人が渡海している。
とんでもない大軍団を作っているのですが
みなこれは豪族たちの民ですね。

豪族たちの協力でできた大兵団を使って
大敗北を喫した!!

これが白村江の戦いまでの倭国の国内事情。
これは王家の危機です!!


対唐防衛戦争


しかし白村江の完敗のあと、唐軍は対馬海峡を越えて倭国占領に来るはずだったようですので、
豪族たちも王家への不平不満を言ってる場合ではなかった。
すぐに対唐本土防衛作戦がはじまります。
まずは
九州の上陸地点で水際で防ぐための城

oonojo0022.jpg 

そしてそこを突破されたときに
瀬戸内海各地で戦うための城。
https://blogs.yahoo.co.jp/monmoblog/14180513.html
より借用

img_0.gif 



豪族たちの不満


「古代豪族」の画像検索結果

百済は新羅が呼び込んだ唐軍によって目の前で滅ぼされていますから
倭国の危機意識は相当なものでしょう。
天智天皇の改革も矢継ぎ早に行われるのですが
それもこれも対唐防衛戦争のためとあっては
豪族たちも大きな声で文句も言えず
従うしかないという状況でした。

それに白村江の戦いで完敗した兵団は
関東や九州の豪族の軍団でした。
天智天皇率いる近畿の軍団は、第二陣の主力として渡海するはずだったのですが
まさかあっという間に百済倭国の軍団が崩壊するとは!

ということで温存されたのです。
すると畿内の軍団は残り
関東九州は大敗北を喫しているから
偶然にも畿内は倭国随一の大兵力を持つことになったのです
だから地方が謀反を起こすことはできなかったわけですね。

日本書記


「日本書紀」の画像検索結果
日本書記によれば大海人皇子は天智天皇亡き後、王になることを固辞し、吉野にこもります。
そして大友皇子が弘文天皇となり大津に即位するのです。
そして弘文天皇が吉野にこもる大海人皇子を捕らえるのだという話になったので
吉野から逃げた大海人皇子は伊賀や尾張や今の関ケ原あたりに逃げていき
その逃亡の道で2万人の軍団が随時付き従ったので
そのまま大津宮に攻め入り弘文天皇を倒したとあります。

白村江の戦いで5万人を動員するのに2年かかった


しかし
逃げていたら3万人が従ったなど
現実にはありえません
4日で3万人が集まったのだそうです。
大海人皇子は次々に味方を作ります。

まず7月24日に吉野を出ます
そして伊勢、熊野の豪族が仲間になります。
そして
伊賀に入り、ここでは阿拝郡司(現在の伊賀市北部)が兵約500で参戦。
そして長男の高市皇子の軍と合流した。長男が軍をそろえていたなんて計画性の証拠です。
伊勢国でも郡司の協力で兵を得ることに成功し、美濃へ向かった。
美濃では大海人皇子の指示を受けて多品治が既に兵を興しており、不破の道を封鎖した。
ここは関ケ原のあたりですので、ここを押さえると
東海道東山道の諸国から兵を動員することができるようになった。
美濃に入り、東国からの兵力を集めた大海人皇子は
7月31日
軍勢を二手にわけて大和と近江の二方面に送り出した。

わずか一週間です。
日本書記の通りなら
ほぼ丸腰で逃げ出しただけなのに
たった一週間で大軍団を抱えて近江宮を攻撃できるようになる。
しかも大友皇子の東国とのパイプは遮断することに成功している。
chizu2.gif 

計画していなければ不可能な行動


軍団は対唐防衛戦争のために
天智が用意していた集団でしょう。
あらかじめ大海人皇子に従うようになっていて
つまり大友皇子が大海人皇子を殺そうとしたというのは日本書記の
嘘であり
事実はその逆です。
わずか1週間もしないうちに2万人がそろった。
そうに決まっていると思いますね。


ではそれは何故なのか


「なぜ」の画像検索結果
さてなぜ大海人皇子は王位につくことを固辞していながら
大友皇子が王になったあと
計画的にこれを平らげたのでしょうか?

これは国際情勢と国内情勢の二つの理由があったと思います。

まずは唐。
白村江の戦いの直後には一気に倭へ侵攻しそうでしたが
その後新羅が裏切り
新羅と小競り合いになっていくので
もう倭に侵攻することは不可能になりました。
逆に新羅戦にあたって倭の協力がほしいと使節をよこしたりします。

すると豪族たちは
白村江の戦いで大損害を被りその後も対唐防衛線のために
制度改革や土木工事などがまんしてたけど
「なんだよ、大丈夫なのかよ」
となり不満が渦巻きます。

この不満を天智の後継者は一手に引き受けることになります。だからこそ
大海は王にならなかった。
そして大友皇子に王にならせたところで
正義の味方づらして
豪族たちとともに無理なことばかりさせた王を退けるのです。
ほんとは天智の参謀として自分も相当やったのに
幸い天智の晩年大友は太政大臣になっていたから
大海はネガティブキャンペーンを張りやすかったでしょう。


最大の要因は百済遺民か?鬼室の人々


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白村江の戦いのあと、倭国に逃げかえる船団に乗って百済の遺民が相当数倭にやってきました。
関東に土地をもらった人たちも今いたが中には畿内に住み
その技術や知識で朝廷の政治に関わる人たちもいました。
そして百済人たちは
唐と新羅が争うときには
唐の味方をしたのです。
なぜなら百済を滅ぼしたのは唐の軍ですが策略でそれを呼び込んだのは新羅です。
そして半島を統一してのし上がった新羅をみると嫉妬と恨みで憎さのみ。
そんな百済遺民たちが
大友皇子の政権ブレーンでした。

室集斯が中でもブレーン中のブレーン。
彼は百済復興戦争の指揮官の将軍である
鬼室 福信(きしつ ふくしん、生年不詳 - 663年百済の王族・将軍
の一族ですからもともとは百済王族です。
白村江の戦いで倭国にいた皇子の豊璋を百済にと連絡してきたのも福信です。
最後は皇子豊璋との争いで白村江の戦いの二日くらい前に処刑されてそのため倭の船団は白村江への到着が二日遅れて、そのため唐の水軍の布陣が終わっていてぼろ負けにつながったのでした。

さてこの
鬼室の人々は
弘文天皇=大友皇子をして
操り倭国を百済にしょうとしていたのかもしれません。


この鬼室の人々は壬申の乱で皆殺しにあったのでしょうか?
今では神社があります。

またこんな記述もあるから殺されたのではないようですね

「子孫は天平宝字5年(761年)百済公姓を賜与されたという。また、肥後国の豪族菊池氏を集斯の後裔とする系図もある」

鬼室神社
Kwisil Shrine.jpg
所在地滋賀県蒲生郡日野町
位置北緯35度1分47.4816秒東経136度17分3.8112秒座標北緯35度1分47.4816秒 東経136度17分3.8112秒
主祭神鬼室集斯

鬼室神社(きしつじんじゃ)とは、滋賀県蒲生郡日野町小野にある神社

鬼室神社(きしつじんじゃ)







持統天皇黒幕説


そんなことも考えられます
しかし壬申の乱のときには太宰府に唐軍が1000人くらい駐留していたという事実もあるから
唐も絡んでいるかもしれない。

そしてすべては額田王のシナリオだったという説もあります。
夫である大友皇子に

「あなた、行って大友皇子を殺しなさい。そして日本と名乗りなさい」

810dc3fe.png 

歴史の裏に女あり。
でも天武天皇のあとは持統天皇ですから
表でも頑張りましたね。
卑弥呼の時代から日本では女が国を動かすのかもしれません。

jitou02.gif 

それにしても大友皇子は攻め込まれたとき
すでに王に即位していましたから
日本史上、ただ一回の
現役天皇が攻められた事例です。
都から逃げた弘文天皇は自殺しました。


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古荘英雄

一人灯のもとで古代史を紐解き探求しています。
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