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魏志倭人伝から卑弥呼への制詔「日本古代史 卑弥呼と邪馬台国を探求する」

 制詔親魏倭王卑彌呼 

親魏倭王卑弥呼に制詔する。 

帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米次使都市牛利奉汝所獻男生口四人女生口六人班布二匹二丈以到 

帯方郡太守劉夏が使者をつかわして、
汝の大夫難外米と次使都市牛利を送り、
汝の献上した男の奴隷四人、女の奴隷六人と班布二匹二丈を持って到着した。 

汝所在踰遠乃遣使貢獻是汝之忠孝 

汝の国は、はるか遠くにあるのに、
使者を遣わし貢献してきたのは、汝の忠孝である。 



矢印(右)ほんとに遠いですよね。
ここから突然「汝」って二人称で語ります。 
陳寿はここの箇所の資料、実際の制詔から引用したのでしょう。

我甚哀汝今以汝爲親魏倭王假金印紫綬裝封付帶方太守假授 

私は汝を大変慈しみ、
いま汝を親魏倭王とし
金印と紫綬を装封して帯方郡太守に託し授ける。 


汝其綏撫種人勉爲孝順 

汝は倭人を綏撫し、我に孝順をつくせ。 


汝來使難升米牛利渉遠道路勤勞 

汝の使者難升米、年利は遠路を苦労してやって来た。 


今以難升米爲率善中郎將牛利爲率善校尉假銀印青綬引見勞賜遣還 

いま難升米を率書中郎将、年利を率善校尉とし、銀印青綬を与え、彼らに会って、ねぎらって送りかえす。 


今以絳地交龍錦五匹
〔臣松之以爲地應爲綈漢文帝著皀 衣謂之弋綈是也此字不體非魏朝之失則傳寫者誤也〕
絳地縐粟ケイ 十張茜絳五十匹紺青五十匹答汝所獻貢 

今、赤地交龍錦五匹、
〔裴松之が考えるに「地」は「綈」でなくてはならない。漢の文帝が「皁衣を著く」「弋綿」のことである。魏の原文が間違っているのではなく伝写の誤りである。〕
絳地縐粟ケイ 十張、茜絳五十匹、紺青五十匹を与え、汝が献上した贈物に答える。 


直又特賜汝紺地句文錦三匹細班華ケイ五張白絹五十匹金八兩五尺刀二口銅鏡百枚真珠鉛 丹各五十斤 

また特に汝には紺地句文錦三匹、細班華ケイ五張、白絹五十匹、金八両、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠鉛丹各五十斤を与える。 


皆裝封付難升米牛利 


すべて装封して難升米と年利に託した。 



還到録受悉可以示汝國中人使知國家哀汝 

彼らが帰国したら、記録して受け取り、すべてを汝の国の人々に示し、魏の国が汝を愛することを知らせよ。 



正始元年太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國拜假倭王并齎詔賜金帛錦ケイ刀鏡采物倭王因使上表答謝詔恩 

正始元年(240)、太守弓遵は建中校尉梯儁らに、詔書・印綬をもたせて倭国に送った。
使節は倭国に至り、倭王に謁して斉王の詔書、黄金、絹類、刀、鏡、采物を与えた。
倭王は使者に上表文を託して詔と恩恵に答謝した。 

其四年倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪拘等八人上獻生口倭錦絳青縑緜衣帛布丹木付短弓矢掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬 

その四年、倭王は再び太夫伊声書・掖邪狗ら八人の使節を送り、生口、倭錦、紺青の綴、綿衣、帛布、丹、木附、短弓矢を献上した。掖邪狗らはみな率善中郎将の位と印綬を与えられた。 


などなど 

とにかく偉そうですよね。
超上から目線です。
まあ、当時の魏ですから当たり前か。
倭王など子ども扱いですね。 
ここまで子ども扱いされている倭王が建国の重要な存在の一人となると、
国内の神話の体系で建国を説明できなくなりますね。
偉大なる魏王によって、
倭で王をやることを許されている、みたいなことですね。 

読めば読むほど偉そうです  (笑) 

朝鮮半島の西岸から長江流域に船を出せ東晋への最短距離です。
しかし朝鮮にそんな船はなかったのではないかと思うし、あっても漢族を助けようとしないのではないか。 
だから東晋に逃げようと思えばいったん倭国に来て、
かつて親魏倭王にしてやった恩義で、しかもトヨの使節には親晋倭王を授与したたかもしれない、晋の朝貢国で恨まれてない倭国に来てなんとかしようとするのだろうと思います、。 
匈奴たちが世界を壊したて恨みの半島に孤立してしまったとき、もっとも安全なのは倭だったかもしれません。 
邪馬台国への使節が取った道を通ればそのまま倭国に行けるわけでルートは熟知していたわけです。こんな風に役に立つとは?という感じです。
    1474902571_62.jpg 




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コメント

兒玉 眞

『魏志倭人伝』の翻訳
還到録受悉可以示汝國中人使知國家哀汝

>彼らが帰国したら、記録して受け取り、すべてを汝の国の人々に示し、魏の国が汝を愛することを知らせよ。

<上記訳は間違いと思われます。正しくは、

(難升米らが)還り到れば録(賜遺の物の明細書)を受け、国家(魏)が汝(卑弥呼)を哀れむことを、悉く汝の国中の人に知らしめせよ。

故に鄭重に汝に好(よき)物を賜うなりと。

兒玉 眞

難升米が持ち帰った録(明細書)
これを見ると、難升米等が持ち帰るのは録(明細書)だけとなり、確かに証書印綬に賜遺の物は魏の正使・悌儁らが正始元年(AD240)に倭国に持ち込んでいるのである。

私はこの後、景初三年(AD239)正月に明帝が急死し、正使・悌儁らの派遣が翌年に持ち越されたため、同年中に難升米らが、録を持って帰ることになったと考えていたが、この文が証書の中に有る処を見ると、難升米等は明帝の生死にかかわらず、元々、正使・悌儁らより前に帰国させることになっていたらしい。
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古荘英雄

一人灯のもとで古代史を紐解き探求しています。
魏志倭人伝、日本書記、古事記をもとに考えたこと、語りあったことなど
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