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日本古代史の基本構造よもやま話「日本古代史 卑弥呼と邪馬台国を探求する」

吉備にあった邪馬台国


吉備にあった邪馬台国が

東遷した
という説がありますね
ダウンロード (2) 

倭国大乱


どうやら卑弥呼即位前の倭国大乱って、
時代的に、神武の河内上陸、奈良盆地侵攻のことではないかと思えてきました。
それで、戦乱を収めるために、ヒメタタライスズヨリヒメのもと、神武も含めて従ったと。 
  
ただやはり、その死後1000人以上が死ぬ騒乱が起こったというのがなんの事件をさすか該当がないような気がします。 


やはり邪馬台国は九州のできごとかもしれません。 
不弥国=宇美町=神功皇后も居城にしたところこそ卑弥呼の住居。 

九州駐留中の神功皇后がなぜ不弥国の領域を居城としたかといえば、
かつての卑弥呼なる倭王の跡地だったからなのではないかと思えてきました。
不弥国は極端に戸数が少なく、
また戸ではなく家で数えられています。
特殊な地域だと思えるのですね。倭へのルーツもここで終わりますし。 

自分の中では二つのものが邪馬台国として並存しています。 
ヒメタタライスズヨリヒメ 。吉備もからんで。なぜなら神武は吉備から出発しています。最後は。 

そして不弥国と神功皇后絡みですね。
どちらでもいいのですがどちらでも楽しく想像できます。 
ヤマト王権とはまったく異質の世界である。
ヤマト王権の前段階である。
1474099530_223.jpg 

張政(ちょう せい) 

三国時代の魏国の支配地域であった帯方郡の武官で肩書は塞曹掾史(さいそうえんし)帯方郡太守、王頎の部下。正始8年(247年)に邪馬台国が狗奴国と紛争になった際、魏から派遣された役人(塞曹掾史)。
その後、20年近くを邪馬台国で過ごして泰始2年(266年)に帰国したとする説もある 

倭の女王卑弥呼は、もとから狗奴国の男王卑弥弓呼と不和であり、
倭の載斯烏越らを帯方郡に送って、狗奴国と攻撃しあっている様子を報告し、
郡太守は塞曹掾史張政等を遣わし、詔書と黄幢を難升米に授け、激文をもって卑弥呼に告諭した。 

この人が来たことも日本書紀も 
古事記も書いてないのです。 

ゆえに 
これは 
九州の出来事だ!! 
とにかく帯方郡からふみ国までは 
細かくルートが書いていて 
そこでぱたりととまる。 
そして 
なにより文章として 
読んでると 
倭人伝は 
九州北岸の雰囲気しか感じない。 

別の政権のことだから 
記録がない。 

シンプル。 

とにかく倭の五王の朝貢など
外交については記紀はまったく書いてない。
わずかに神功皇后のところに。
ダウンロード (1) 


当時は奈良平野

奈良の平野が、いいとこだったということです。

すべては。

瀬戸内海の東のゴール。そして河内の河川と河内湖。
それに沿って奈良へいや。

水と山のコラボ。豊かであり

瀬戸内海交易と

琵琶湖を介して日本海交易と

伊勢を介して尾張東国交易に

それぞれ入ってる

列島のコンスタンチノープルだ!

だから神武は、熊野まで迂回しても
取りたかった。
トルコのメフメット二世が
船を山越えして運んで
コンスタンチノープルの目の前に突然
艦隊を出現させたように、
無理しても取りたい豊かな土地。交易の場。
コンスタンチノープルだということだ。
丹後へ  

神功皇后

日本書紀の神功皇后記に魏志倭人伝の挿入があるので間違いなく知っていました。
それは卑弥呼が使節を魏に送った事績です。

景初(ケイショ)三年景初(ケイショ)三年のことですね。
これは神功年間の39年の出来事です。
その旨日本書紀に書かれています。

そして神功元年は201年です。

つまり景初(ケイショ)三年=西暦239年=神功皇后39年という
三角測量ができるわけです。

そしてこの一致をもとに各天皇の在位を計算すると神武天皇がBC660年になるわけですね。すると実在性も疑われる神功皇后が69年間の摂政治世をもとに計算してるのでいい加減もいいところ。
しかも実在していても多くは4世紀の人であるとしています。あと一つ通史の概念は近代以降のものであり、昔は王の在位以外の時間感覚はなかったと思います。つなげると初代が何年になるかなど想定などしていない。神武元年は絶対の時間として神武元年であり、他の暦など想定していないというのがぼくの考え方です。 
そして神功皇后の事績はやはりそのまま3世紀であり 
仲哀という夫をなくして夫のいない姫が 
武内の宿祢という弟のような実務者と政治をして 
狐憑きのような鬼道で人を惑わし夫の王まで殺し 
宇美町=フミコクを軍団の駐留地にして九州北部に女王国という勢力範囲をもち 
南の熊襲=狗奴国と開戦状態であり 
その本来の都はかなたのヤマト=邪馬台国にあるという 
オキナガタラシヒメこそが 

卑弥呼その人であるというのが最近のマイブームです
ひとつ確認しておきましょう。
記紀の編者たちはたとえば
過去1000年間の通史を書こうとしたか?
否です。
何度も言いますが通史という概念は近代からです。


さてあれはなんの記録を書いてるか?
神々と王の事績を書いています。
年表という時系列に歴史を並べるのは近代啓蒙主義が生んだもので
古代にはそんな概念はありません。

古代人は伝承されていた神々と王の物語を書いただけです。
王の即位と死去の年数が書かれているから
近代的思考の我々がそれをつなげて
いつ頃何があったと言ってるだけで
古代人の頭のなかは

「綏靖天皇がいた。
こんなことをした。
いつ頃生まれていつ頃死んだ。」
これだけです。

スサノオがヤマタノオロチをたおした年数や
宗像三女神が生まれた年などありません。
イザナギが禊をした年もありません。



人名と大きな出来事の物語が伝承です。

物語にすることで伝承は次の世代に行きます。

ホメロスが編集したイリアスはトロイ戦争の伝承を詩にしました。
平家物語も琵琶法師の伝承をあとで信濃の前司会行長が文章にしたのですね。
島根県には大国主が逃亡中にここによったという伝承があります
対馬にはアマテルが神無月に出雲にいった伝承が今でもあります。

そうでなくても昔の先祖の話を伝承で伝えている家族はとてもたくさんありますね。

文字がないと逆に伝承だけだから1000年でも2000年でも伝わるのだと思いますね。

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古荘英雄

一人灯のもとで古代史を紐解き探求しています。
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