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聖徳太子の祖父欽明天皇と辛亥の変の謎「日本古代史 卑弥呼と邪馬台国を探求する」

欽明天皇

ミクシーより
『日本書紀』によれば、天国 排開 広庭 天皇 

『古事記』によれば、天国 押波流岐広庭 天皇 

『元興寺伽藍縁起』によれば、天國案春岐廣庭天皇 

『天寿国繍帳』によれば、阿米久爾意斯波留支比里爾波乃弥己等 

すごいですね。
天国から来た人、そんな風に表記されているのです。
天国というのは任那のこと。または対馬や壱岐、つまり対馬海峡の海の世界という
そんな意味合いではじまって、当初の中心は対馬に近い任那だったのだろうと思います。
それは朝鮮人が天孫族ということではなくて
対馬海峡人が天孫族という意味です。
海人は島がたくさんあってリアス式海岸である半島南部を自分たちの活動領域としていた、つまり対馬と壱岐の人が任那地域と筑紫地域に等しく船で活動していたという意味です。
現在の国境で考えるのはまったく無意味であり、古代において対馬海峡は壱岐対馬という倭人の領域だったということですね。
欽明天皇は、第29代天皇。
和風諡号は天国排開広庭天皇。別名、志帰嶋天皇・斯帰斯麻天皇。この代に、百済より仏教が公伝し、任那が滅亡した。 ウィキペディア
生年月日: 西暦509年
死亡: 西暦571年4月15日, 飛鳥
******************************
記紀の欽明天皇の記事は、
任那を巡る朝鮮半島政策の記録が大半で、国内政策の記事はわずかです。 
あたかも、本土奪還を最優先課題とした亡命政権のようです。 

そして、別名が、志帰嶋(斯帰斯麻)天皇「シキシマのスメラミコト」ということから、 
大和盆地東部の磯城に皇居を置いた実在性の高い天皇としては初の位置付けになりそうです。 

このことから、
欽明天皇とは、朝鮮半島南部を本拠地とした天孫族の出身であり、 
半島情勢の悪化から日本列島に亡命し、 
大和盆地東部から半島政策に取り組んだ初の倭の政権であった可能性が考えられます
rekisiminananihonfu.jpg 
************************************

百済本紀

「辛亥の年の3月に、軍(百済軍)が進んで安羅(あら・加羅諸国の一つ。慶尚南道の咸安地方)に至り、
乞〇(托の手偏の無い字・こつとく)城を造った。
この月に、高麗(高句麗)はその王の安(安蔵王)を弑(しい)した。
また、聞くところによると、日本の天皇および太子・皇子が皆亡くなられた」とある。

百済本記では辛亥の年(531)に日本の天皇・太子・皇子がみな死んだという、驚くべき事件を伝えているのです。

ヤマト王朝の宮廷でクーデターが起こったことか伝染病があったか・・・・でしょうね

あるいは継体天皇の死後、

安閑天皇・宣化天皇の朝廷と
欽明天皇の朝廷が並立し、
二朝間で内乱があったのではないかとする説もある(「辛亥の変」説)。

継  →  欽明天皇
死  →  安閑天皇・宣化天皇


*安閑天皇  
継体天皇の後を受けて、66歳にして即位したが、わずか4年で崩御した。

*宣化天皇  
先の安閑天皇が崩御したとき、その子供がなかったために同母弟の宣化天皇が満69歳にして即位した。  筑紫の官家の整備を行い、大伴金村に命じて新羅に攻められている任那に援軍を送った。高齢での即位と、在位が3年余りと短いため、あまり主立った事績は無い。


安閑・宣化朝は父継体天皇死後直ぐに即位した弟の欽明天皇と
並立していたとの説を辛亥の変仮説といいます。

系図  この直前26代が継体天皇です。その後について

      次が即欽明天皇という書き方に書記はなっている。
      そして安閑天皇・宣化天皇はあっという間になくなっていくのですね。

 
(27)安閑天皇
 
 
石姫皇女
(欽明天皇后)
 
 
 
 
 
 
(28)宣化天皇
 
 
上殖葉皇子
 
十市王
 
多治比古王
 
多治比)
 
 
 
 
 
 
 
(29)欽明天皇
 
(30)敏達天皇
 
押坂彦人
大兄皇子
 
(34)舒明天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
春日皇子
 
 
茅渟王
 
(35)皇極天皇
(37)斉明天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大派皇子
 
 
 
 
 
 
(36)孝徳天皇
 
有間皇子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
難波皇子
 
大俣王
 
栗隈王
 
美努王
 
諸兄
橘氏へ〕
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(31)用明天皇
 
厩戸皇子
聖徳太子
 
山背大兄王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(33)推古天皇
 
 
来目皇子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(32)崇峻天皇
 
 
当麻皇子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
穴穂部間人皇女
 
 
殖栗皇子


*************************************
『日本書紀』によれば、継体天皇の崩御の年次について、 
『百済本記』の説を採用して辛亥の年(531年)とする一方で、 

異説として甲寅の年(534年)とする説も載せている。 
甲寅の年は次の安閑天皇が即位した年とされ、 
これは通常継体天皇の没後、2年間の空位があったと解釈されている。 

ところが、ここにいくつかの疑問点が浮上する。 
『百済本記』の辛亥の年の記事は「日本の天皇及び太子・皇子倶に崩薨」 

『上宮聖徳法王帝説』・『元興寺伽藍縁起』では欽明天皇の即位した年が辛亥の年(531年)とされ、あたかも継体天皇の次が欽明天皇であったように解される。 
つまり安閑天皇・宣化天皇はなかったものであるかのようにされているのです。


『古事記』では継体天皇が丁未の年(527年)に崩御したことになっている。

この考え方は第二次世界大戦後に林屋辰三郎によって継承され、

林屋はそこから一歩進めて
継体天皇末期に朝鮮半島情勢を巡る対立を巡る混乱(磐井の乱など)が発生し、
継体天皇の崩御後に「二朝並立」とそれに伴う全国的な内乱が発生したとする説を唱えた。
『日本書紀』はこの事実を隠すためにあたかも異母兄弟間で年齢順に即位したように記述を行ったというのである。 

**********************************

ということで

当たり前と思っている古代史の通説にも疑問の余地をはさむことができます。
言いがかりレベルなのか
きちんとした疑問なのか
それは知るほどの知識がありませんが
いずれにしてもこの欽明天皇の頃というのは
とても任那色がありますね。
でも考えたらそれは倭の五王のときの政策で半島へ進出して安東大将軍になってたりしたから
その任那駐留将軍は列島内の軍勢よりも質量ともに豊富であったとも考えられ
その駐留将軍がもう任那がもたないと帰国して
そのまま王位も取ったのかもしれませんね。
もちろん任那駐留将軍は皇族だったでしょうから、即位に問題はなかったと。



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一人灯のもとで古代史を紐解き探求しています。
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