FC2ブログ

「日田を巡る風景」九州王朝とは?9 「日本古代史 卑弥呼と邪馬台国を探求する」

日田は九州の陸上交通の要

日田近辺を水源とする川がたくさん。

遠賀川、筑後川、山国川などが、宗像や高良大社や、宇佐へ向かって流れています。 


古代の九州と奈良の交通でいけば、神武も景行も宇佐から出発したり、宇佐に上陸したりと、これは九州の海の窓口ですね。
すると筑紫から宇佐に行くには海路を関門海峡を抜けていくというのもありますが、
宇佐が港として機能していれば、陸路そこに持ち込めば宇佐の船で周防に、四国に吉備に奈良に行けるわけです。 
1477369399_18.jpg 
今日でも九州自動車道は日田インターを経由して宇佐や大分方面にいくわけですので、
古代から日田は筑紫の勢力が宇佐に荷だしするときの中継点なのですね。
こんな山奥の盆地が天領であっというのも地政学的な特質のゆえです。
また筑後川を使って日田杉は筑紫平野に運ばれ
九州では有名な大川の家具屋群が生まれる所以にもなっています。 

いずれにしても福岡、筑紫、宇佐、大分を結ぶ要衝の地として
人と物がここを通ったのは人の営みとして必然だとジモティーの私は思う次第です。


伊都国から宇佐に行くには


海路より陸路の方が早そうですし。 
それに神武も宇佐から岡田宮までいって引き返します。
筑紫とこの遠賀川流域あたりは別の勢力のような気もしますし、
海路で関門海峡抜けてくるより、早くて安全だったのではないか。 
もしそうなら
筑紫→日田→宇佐
というのは一大幹線道路となるわけです。


景行天皇が南九州に駐屯しているとき

北部九州、とりわけ博多湾から唐津湾までの国々はどうなっていたのでしょう? 
浮羽という日田の隣までは来ますが
結局大宰府以北には一切入ってないのですね。
景行天皇。 

関連画像

その子供の仲哀天皇の代になって香椎宮に入り、
筑紫と戦いますが戦死したようです。 
するとこうなります。 

景行天皇は宇佐に上陸し南九州をぐるりと平らげ、しかす数年もいて、最後は浮羽から日田へそして宇佐への出て奈良へ帰ったようだから、博多湾岸諸国は南方面に対して、とてつもな脅威を持ち続けた。しかし半島とも行き来する湾岸諸国は強力で、景行天皇は大宰府より北には行けなかった。 

仲哀天皇の死後、神功皇后によって湾岸諸国が下ったように思えますし、田ブラ津姫を山門=ヤマトで殺していますね。 

さて、ある勢力が南方にいるからそれを軍事的な脅威と感じ、そのために帯方郡に何とかしてくれと依頼しにいった国があります。 




邪馬台国です。 
実は狗奴国とは、南九州に駐留中の景行天皇の軍のことだったのではないかとか、まじめに考えるようになりました。 

男王卑弥弓呼(一般的には「ひみここ」と読むが「ひこみこ」(彦御子)とする説がある)がおり、官を狗古智卑狗(一般的には「くこちひこ」と読むが「きくちひこ」(菊池彦)「かわちひこ」(河内彦)とする説がある)と言った。邪馬台国の女王卑弥呼と卑弥弓呼は「素より和せず」戦闘状態にあったが、この戦いの最中に卑弥呼が死去したという。 

 倭を代表するクニが邪馬台国であるなら


やはり纒向ほどの規模のものは、

多くの国の中の一つというわけにはいきません。大きすぎます。 
この大きすぎるというのがいまいち伝わってないですね。
吉野ヶ里遺跡や唐子鍵遺跡、多くの弥生環濠集落遺跡は
40~60ヘクタールなんですが
纏向遺跡は300ヘクタール。
これはもうコンセプトが全く違う都市なのですね。
「纏向遺跡」の画像検索結果

だから
纒向が大和にあって
九州に邪馬台国があって
という状況とは
きわめて特殊な状況なんだということなんですね。 
まあ、邪馬台国が奈良にあるとなるとそれで終わりなのですが、
倭人伝では九州のせいぜい筑紫平野までの行程までしか詳しくありません。
通常、魏は筑紫平野までしか来ていなかったということだろうと思います。 
であればジョンさんの言う通り、九州説の場合、奈良に纒向があるのは不思議なことなのですね。一方奈良に邪馬台国があるばあい、帯方郡は伊都国に頻繁にきていて、ふみ国まではよくしってるが一度も奈良には来ていないようなのはこれまた不思議なわけです。 

それで延々と決着がつかないわけです。みればみるほど九州に邪馬台国があるようなのに、どうも奈良に時代的に最大勢力がいるようでうs。 

そうすると最大勢力ヤマトが九州に肩入れして、奈良に天皇が不在であった時期というのは、ジョンさんの言うように魅力的ではあります。 
ただ神功皇后は空白の4世紀の人に思えますね。 
帯方郡がいるのに三韓征伐に出兵できるものでしょうか。

九州北部の神功皇后ゆかりと言われる神社


図にしてみました。 

こうみると、この範囲に神功皇后軍が展開・駐留していたわけですね。
それも数十年にわたって。
この状態を半島や大陸からみると、
倭の都は九州北部でそこは女王が統治していると思えるでしょう。
その女王は聞けば、占いで神託を告げるというぞ、みたいな情報になると、卑弥呼的です。 
おまけにその時代、奈良には天皇がいないのですね。
仲哀が死んでから。 
そして中国では 
『新唐書』列伝第145 東夷 倭日本[3]に「仲哀死、以開化曽孫女神功為王」、『宋史』列伝第250 外国7 日本国[4]に「次 神功天皇 開化天皇之曽孫女、又謂之息長足姫天皇」とある。

から九州北部にいる女王を日本の王だと認識していたということです。
つまり倭王は九州北部にいてそれは女王だという認識ですね。 
その南、九州南部には狗奴国候補の熊襲があるわけで、
もともとその戦いのために九州にきているわけです。
ただ熊本や薩摩の熊襲ではなく、朝倉の田ブラ津姫が主敵だったと思いますね。 
この田ブラ津姫こそ卑弥呼という説もありますけど。九州説においては。
1478693286_193.jpg 




スポンサーリンク

コメント

非公開コメント

古荘英雄

一人灯のもとで古代史を紐解き探求しています。
魏志倭人伝、日本書記、古事記をもとに考えたこと、語りあったことなど
徒然に記します。

スポンサードリンク

プロフィール

古荘英雄

Author:古荘英雄
一人灯のもとで古代史を紐解き探求しています。
魏志倭人伝、日本書記、古事記をもとに考えたこと、語りあったことなど
徒然に記します。

ブログ村ランキング参加中

ブログ村古代史ランキング参加中

PVランキング参加中

ブロとも申請フォーム

検索フォーム

QRコード

QR