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九州王朝とは?⑦公孫氏が天孫族である「日本古代史 卑弥呼と邪馬台国を探求する」

天孫族とは魏の朝鮮半島長官=公孫氏のことである

公孫と天孫は同じ構造の単語ですね。
公孫というのはちゃんとした古代シナ語です。
「 公子」までは王籍で、孫の「公孫」からは臣籍になるそうです。
かつては王籍だが今は臣籍の氏族が「公孫氏」。
すると卑弥呼の朝貢直前の半島支配者の公孫氏とは
魏の皇帝の孫の一人が起こした一族だったのでしょうか?
そして
天孫族とは
天子は中国皇帝ですが、天孫はかつては天子の一族だが今は臣籍になった一族とも勝手読みも楽しいですね。 

photo.jpg 
公孫氏は魏に謀反を起こして独立宣言してから地固めのために、半島や倭などに味方になるよう強く訴えたそうなので、当時日本に来た可能性はあります。
公孫氏の使者が
馬韓や辰韓に行ったらその先の倭に目をつけないわけはない。
使者が九州に来たでしょう。
そして伊都国に駐留したでしょう。
魏志倭人伝の中の倭へのルートとは公孫氏が開拓したルートかもしれません。

4世紀に五胡十六国時代に入り、
帯方郡が半島に孤立したとき、帯方郡の漢族は何とか揚子江の南朝の地に行きたかったのではないか。 
そして五胡が跋扈する北部を通らずに行くには海路です。いったん倭地に行き、倭人の船で行こうとしたかもしれない。 
倭の五王のおびただしい朝貢は、亡命帯方郡人たちを南朝に運ぶ作業だったのかもしれない。 
公孫氏の来航が天孫降臨というのはありかもしれない。時代的にはあいますね。 
南朝への橋渡しや、上奏分を書いたの亡命帯方郡人たちだった・・・・ 

これは妄想です。

それで思ったのは九州王朝というのは亡命政権だった。

そもそも倭人というのは対馬海峡人であれば、対馬と壱岐と加羅のあたりと筑紫が一体化して生息地だったのだとすると、加羅に逃げてきた人は必然として筑紫に行きます。 


するとやはり筑紫を筑紫としてとらえるのではなく筑紫とは壱岐と対馬と加羅と一つの國であったと考えてみる。今の行政区分だと筑紫は福岡県で壱岐対馬は長崎県で加羅は韓国ですが、この領域海域は倭地だったと考えるといろんな、ことがシンプルになるのではないか。九州島から半島にいったのではなく、もともとその領域が倭地だった。そこから、列島の方に発展していったということですね。

1474099141_110.jpg 

ふと思ったのですが九州の特殊性 

坂上田村丸が征夷大将軍として 
東北征服戦争をしました。 
また日本武尊もあちこちで謀略の限りをつくして侵略を。 

でも九州へは 
景行天皇が数年も親征し(留守中にクーデターがおきないのかな) 
仲哀天皇も自ら出向きました。 

このように九州へは天皇自ら行く。 
東北その他へは天皇自らはいかない 


古田さんはこのことをもって筑紫のオオキミが 
九州島を征服戦争した事績を 
奈良へ移し替えたと言ってました。昔は。 

さて奈良の天皇たちはみずから出征しないものだと思うのですが 
九州にだけは皇后まで連れて行ったりしてます。 


この辺不思議ですね。 
知識不足なのでこういう解釈になるのかも? 

なぜ景行天皇は将軍を派遣しなかったのか? 
なぜ仲哀天皇は将軍を派遣しなかったのか・ 

自らでむかないといけない高貴なものが九州にいたのか?

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古荘英雄

一人灯のもとで古代史を紐解き探求しています。
魏志倭人伝、日本書記、古事記をもとに考えたこと、語りあったことなど
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