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九州王朝を語り合おう 倭の五王「日本古代史 卑弥呼と邪馬台国を探求する」

http://www.bell.jp/pancho/travel/furuiti-mozu%20kofungun/goou.htm 

『宋書』では各倭王の名は一字で表示されている。 

そこで記紀に示されている天皇の諱(いみな)との関連付けが試みられているが、 
その対比は諱の第一字をとったり、 
第二音をとったり、誤写であるとしたり、 
いかにも恣意的で素人目にもコジツケくさい。 

唯一、雄略天皇の諱である大泊瀬幼武(おおはつせわかたけ)の最終字から、中国名に「武」を用いたとする説だけが説得力を持つ。 

そこで、倭王武を雄略天皇に固定することで、その他の天皇の比定を行っている。すなわち、 
●讃 → 履中天皇、仁徳天皇、応神天皇 
●珍 → 反正天皇、仁徳天皇 
●済 → 允恭天皇 
●興 → 安康天皇、木梨軽皇子 
●武 → 雄略天皇 

倭王讃と珍に複数の天皇が比定されているのは 
『宋書』の記述からは、珍と済の関係が親子なのか、 
兄弟なのか判定できないためである。 
親子なら珍は仁徳天皇、兄ならば反正天皇になる。珍が反正天皇なら、讃はその兄だから履中天皇に比定されるのは理解できるが、珍が仁徳天皇ならば、『宋書』の讃と珍の兄弟関係を否定して親子関係の誤りとして、讃に応神天皇を比定せざるを得ない。また興に木梨軽皇子を比定する説は、興が済の世子と明示されている点に配慮したためである。 

いずれの比定が正しいかを断定することはできない。 

さらに言うならば、こうした比定にも問題がある。雄略天皇の在位は『日本書紀』では456年~479年と推定されている。だが『梁書』武帝紀によれば、西暦502年に鎮東大将軍から征東将軍へ爵号を進めていて、まだ存命だったことを伺わせる。そうであれば「武」と雄略天皇と同一人物でないかもしれない。


●讃 → 大兄去来穂別尊(おおえのいざほわけのみこと)履中天皇、 
       仁徳天皇大雀命(おほさざきのみこと)、    
       ざとかさんとかがまざってるからそこから讃になったっていうのはどうなんだろう? 

    
●珍 → 反正天皇、仁徳天皇 
       多遅比瑞歯別尊(たじひのみずはわけのみこと)これはなんで珍なのだ? 

●済 → 允恭天皇 
       雄朝津間稚子宿禰尊(おあさづまわくごのすくねのみこと)  
       さがつくからって? 
       
●興 → 安康天皇、木梨軽皇子   
      穴穂天皇・穴穂皇子(あなほのみこ) 
     なんで? 

●武 → 雄略天皇 
       大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと) 
      武だから武に違いないと雄略天皇が武であると確定させて他を考えてるそうです。 

こんな一文字がちょっとかぶるということではなくて 
九州王朝の王たちであるとすると簡単なわけですね。 
そういう名前の王がいたのだと。 

それはそれで反則みたいな。出雲の王の名前です、でも行けますね。 
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