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「日本古代史 邪馬台国と卑弥呼の探求」三内丸山遺跡と縄文日本

三内丸山遺跡について

5500年前~4000年前の時代だから
紀元前3500年から紀元前2000年までの1500年もの長期間継続した集落です。

黄河文明と同じくらい古い。そして稲作ではないものの植物栽培をして食料確保をしていました。

Wikipediaより

遺跡から出土したをDNA鑑定したところ、

それが栽培されていたものであることなども分かり、

多数の堅果類(クリ・クルミ・トチなど)の殻、→この類で人体に必要な栄養がほとんど取れます

さらには一年草のエゴマヒョウタンゴボウマメなどといった栽培植物も出土した。


三内丸山の人たちは、自然の恵みのみに依存した採取活動ではなく

集落の周辺に堅果類の樹木を多数植栽しており、一年草を栽培していた可能性も考えられる。


 


このことを通してこの遺跡の居住者数は数百人と考える事ができる。平成6(1994)年9月に青森市で開催された「北のまほろばシンポジュウム」では最盛期の縄文時代中期後半には500人の居住者がいたのではないかとの発言があった



これほどの集落がなぜ終焉を迎えたのかは謎である。一因としては、気候の寒冷化などが挙げられるが、それだけで集落全土を手放すとは考えづらく、栗の栽培を停止しなければならない何か特別な理由があったという見解も示されてはいるが、それが何であるかは分かっていない。



 

この5000年前後より前の頃は、西日本には人口が極度に少なかったです。人口の大半は東日本にいました。巨大海底火山噴火などで西日本はやばい状況でした。豊かなら東国でした。

 




上図で行くと。


ヒスイを通して


有明海筑紫平野と出雲と越と


三内丸山がつながる。


黒曜石まで絡めると全国がつながる。





これはもう全国の交易ですね。


弥生時代にこの交通路はそのまま引き継がれる。この石器製作センターにしてヒスイ産出センターには文化や情報が集中しているから青銅器時代にもやはり中心的役割を果たすし、


稲作がくればそれを取り入れようとする。


諏訪や東北や越は当初稲作ができないということで衰退していくのではないか。


越の縄文遺跡も豊かです。


この越の縄文遺跡もすごいですね。


日本海で列島全域につながり対岸の大陸とつながり、


この越の奥は諏訪ですから。


いかにこの人口100名程度の集落の全国ネットワークがあったか。その社会は別の意味ですでに国ですね。統一意識として


諏訪の黒曜石はいい、隠岐のも神津島のもいいなどと、広域情報を共有していたことだと思います。


奥三面遺跡
旧石器時代(約3万~1万3千年前)、縄文時代(約1万2千~2千4百年前)、弥生時代(約2千年前)、古墳時代(約千7百年前)、江戸時代(約4百~百3十年前)の生活の跡や土器・石器などが発見

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縄文の豊穣さは想像を絶するのですが、弥生時代が大きな断裂を生んでいるのかどうなのか、つまびらかではありません。
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古荘英雄

一人灯のもとで古代史を紐解き探求しています。
魏志倭人伝、日本書記、古事記をもとに考えたこと、語りあったことなど
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