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「日本古代史 邪馬台国と卑弥呼の探求」欠史八代は皇后の時代 大国主の巫女たちこそ真の倭王

出雲に大国主という役職があったと思います。それはつまり王という意味です。

大国主=王

大国の主なのだから王でしょうね。


そして

事代主は神主。

それも大神主ではないかとふと思いました。


国譲りに際して大国主は子供の事代主に意見を聞いたのではなく


巫女の事代主に神託を聞いたのではないかと想像してみました。


【事代主神】ダウンロード


    出雲神話の神。大国主命の子。国譲りに際して父に国土の献上を勧めた。


そうすると


大神主=事代主なら
大国主が・・・・
国の主と神の主が併存する政治体制は


邪馬台国から江戸幕府、現代にいたるまで日本権力の基本構造です。


大神主と大国主。このペアこそ倭の政体。


それは別の表現で


卑弥呼と男王。



事代主は実は女巫女で、その後継者の女たちが


新たな男王とペアでおさめたならば、
出雲の国譲りというのは、男王が変わっただけで女巫女はかわらない。
というようなことをふと考えました。


いわゆる欠史八代です、


この時代には女王が中心となって男王がセットになって治めており


だから当然男王に事績などないのですね。

後に女王の事績は神功皇后一人に集約されて記述されたとも唱える人もいます。

この初期天皇の女王時代の一人が卑弥呼である。

それは姫の中の最も優れた姫という呼称を持つはずです。



 


 


1 神武天皇 カムヤマトイワレビコ ― ヒメタタライスズヒメ 

この神武天皇の妻は姫が先頭にも最後にも来る。

中国では偉大なる師のことを

師〇〇師という風に最初と最後に師を入れます。

すると姫〇〇姫は女王の中の女王


つまり神武の妃  姫多々良五十鈴姫こそが卑弥呼であった。

事代主の娘です。

すると倭国大乱とは国譲りのことになります。


神武が実在なら応神が400年ころで遡ってちょうど3世紀の半ばになるでしょうか。


2 綏靖天皇  カムヌナカワミミ ― イスズヨリヒメ(カワマタビメ) 


「渟名河」は現在の姫川で、その名は奴奈川姫に由来し・・・これが綏靖天皇


そして皇后


五十鈴依媛 イスズヨリヒメ



【事代主神】の娘


ということはこの人と綏靖天皇の子供の安寧天皇は


大国主のひ孫となって、大国主の血は天皇家に入る。


おまけに綏靖天皇の母は


事代主神の娘の媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)、『古事記』では大物主神の娘の伊須気余理比売(いすけよりひめ)とする。




事代主神の娘の息子が綏靖天皇ならば
その妻の五十鈴依媛 イスズヨリヒメは綏靖天皇の叔母となる。
そして綏靖天皇の和名は
神渟名川耳天皇(かんぬなかわみみのすめらみこと)であるから
越の沼河比売ぬなかわ姫(大国主の妻の一人)ゆかりらしいし、
そうするとぬなかわひめの息子は建御名方で諏訪の神である。


越と出雲と諏訪と天皇がからみあう古代史である。




ここまで出雲がしっかり入ってきているのは脅威的ですね。


これだけ見たら藤原氏か?蘇我氏か?と思ってしまうほど、出雲の王族の娘が大和の皇后です。


仮説として、まさに出雲はヤマト王権の藤原氏であった。だから神話の中心。


また別の仮説。国譲りがあったということで、ヤマトは聖なる前の王家の血を入れることで権威を持とうとした。




しかしそうではなくて、大和は男の王


出雲は女の王。


倭の国政は


そのペアであるという考えかたも面白い。




 


そして出雲の王族の娘というのは


巫女をやっていたとしたら


大和の男が王をやり


出雲の姫が巫女をやり


女王と男王のセットがこの記録。




大国主と大神主


国の主催と神の主催




欠史八代は巫女の時代。


当然男の王の事績はない。


そしてこの巫女の時代こそ邪馬台国であり、


巫女の事績の集約が卑弥呼である。


そんかことも考えられるのではないか。




欠史八代が終わり、男王の事績は崇神天皇から始まります。


そして男王としてセットの一人だった崇神天皇が初めて


巫女制度を廃止して新たな政体を開始した。


だからかれはハツクニシラスなのです。



初代の神武、二代の綏靖、三代の安寧まで出雲系の事代主の命の血族と縁戚関係に入ったことになり、


大和王朝建国過程での出雲王朝との繋がりの深さが分かる。



下図。3代以降天皇の和名と妃の組み合わせです。


これはあるいは皇后ではなく、王とコラボした巫女の系譜なのではないかと。

この時代の男王は飾りであり、女王こそが本当の倭王ではなかったか



3 シキツヒコタマテミ ― ヌナコソナカツヒメ 
4 オホヤマトヒコスキトモ  ― アマトヨツヒメ 


5 ミマツヒコカエシネ  ― ヨソタラシヒメ 


6 ヤマトタラシヒコクニオシ  ― オシヒメ 
7 オホヤマトネコヒコフトニ  ― クワシヒメ 
8 オホヤマトネコヒコクニクル ― ウツシコメ 


9 ワカヤマトネコヒコオホヒヒ  ― イカガノシコメ 




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コメント

藤井義晴

欠史8代
邪馬台国の時代[200-250年]は 東海~九州北部に至る統一がなされていた。
 当時の遺跡から 九州の土器が見つかっていない。
九州北部[奴国]の南には 対立する狗奴国があった。
卑弥呼が亡くなると 台与を経て三輪王朝に引継がれる。
 三輪王朝:第10代崇神・第11代垂仁・第12代景行天皇期

従って、卑弥呼以前の8代は存在しない。崇神が神武ともみなされます。

三輪王朝の時代に 九州の勢力が東征として大和にやって来た判断されます。
崇神期には 大国主の和魂・大物主を三輪山に祀り[出雲勢力との統一]、狭井神社の祭神・伊須気余理比売は九州の勢力との融合を意味する。
 倭国が一旦平定されたものの 葛城族による河内王権に引継がれたが
桜井市忍坂に拠点を置いた息長族[大中姫]により 大和の地に都を引き戻した。
その継承者が継体天皇と思われる。
その後、尾張・伊勢の勢力の欽明天皇に引継がれ 飛鳥時代に続く。

作者より

ご丁寧な考察ありがとうございます。

-

けっし8代は大化の改新で記録が蘇我氏によりもやされてしまったためで、
列島東征以来、弥生の初めから何十人いたかわからない天皇を8という縁起よく多数を象徴する数字で置き換えたためとおもわれる。
当時でもBC660年の神武東征だけは広くおぼえられていたと考えるのがふつうである。アメリカ人だって途中の細かい大統領や出来事などしらなくても、独立の年と独立戦争ぐらいは普通しっているだろう。
 神武東征が奈良時代に創作されたなどと平気でいう学者はマルクスイデオロギーにこりかたまった昭和のカンブツとしか思えない。
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古荘英雄

一人灯のもとで古代史を紐解き探求しています。
魏志倭人伝、日本書記、古事記をもとに考えたこと、語りあったことなど
徒然に記します。

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