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「日本古代史 九州王朝の探求」白村江の戦いから壬申の乱へ

663年白村江の戦い。→672年壬申の乱


671年に「筑紫君薩夜麻」が2千余人の兵と共に白村江の捕虜から解放されて倭(九州)に帰国しました。帰国後翌年に壬申の乱なのです。

そしてその時唐軍は太宰府に1500人ほど駐留しています。

唐軍がいるのに内乱をしたのです。


ところで白村江の戦いの敗因の一つが福信事件。

帰国した王子と現地の将軍の仲たがい

663年6月
百済王・余豊璋(よほうしょう→倭から帰国した王子)が、鬼室福信を謀反の罪で殺害した事件です。

鬼室福信は百済復興のため百済残存軍を率いて、
唐・新羅連合軍の残留軍と戦いを挑んでいました。
福信は倭国に対して人質として倭国にいた皇子・余豊璋の帰国を要請し、中大兄皇子は余豊璋を帰国させました。

福信は帰国した余豊璋を即位させるなど、両者の関係は良好でしたが、
王子は福信らの反対を押し切り抵抗拠点を移し(周留城から避城へ、しかし再び周留城へ戻る)、それに失敗してしまいます。
それにより両者の間に亀裂が入るようになります(福信は余豊璋を「祭主」(名目的な王)にして、自分が実権を握ろうと考えるようになったといわれます)

福信に対する不信感は余豊璋に広がっていき、軍の戦略の不一致も目立つようになり、余豊璋は福信を謀反の罪で捕え、殺害した(福信が余豊璋を暗殺することを察知したとも)といものです。

この百済の内輪もめの結果、
本来は倭軍が先に白村江で布陣して唐水軍を待ち構えるはずが
唐軍が布陣したところに後から向かうことになったのです。

サッカーで言えば、
カウンターで相手陣内に走り込もうとした矢先に
香川と大迫が殴り合いのけんかをしてしまい攻撃が止まり
その間に相手チームが守備固めしてしまったというくらい
なんとあほな百済人だったことかと思うのです。
サッカーの試合中に味方同士で殴り合いなど
するものかと思われるかもしれませんが
国家復興戦争の山場で内輪もめするのは
それくらい愚かなことだと思うのですね


この時以来、日本では
あまりにもばかばかしいことを
百済がなくなったことになぞらえて
「百済ない」→「くだらない」
というようになったのです。
今に残る白村江の影響です。

もちろんこれはジョークです。


ところで話を戻して


日本書紀」が言う、「天武」と言う人物は


「九州倭国王筑紫君薩野馬(薩夜麻、大皇)」と、→671年に捕虜から解放されて帰国した筑紫の王

「その弟である大海人皇子(大皇弟)」を合算しして記述しています。


という説もあります。

つまり大海人皇子は九州王朝の王であったのだと。


すると何がどうなるのでしょうか?



さらにまた次のような説も


高市皇子が薩夜麻であり天皇


以下のことから高市皇子=薩夜麻であったと考えられる。



  • 「壬申の乱」の前年の671年に筑紫君薩夜麻が2千余人の兵と共に捕虜から解放されて倭(九州)に帰国している
  • 高市皇子の母は、九州の豪族である宗像氏の娘とされている。

次のことから薩夜麻が天皇であったとする説がある。


  • 日本書紀には「白村江の戦い」における倭軍の総司令官の名前が無いが、安曇比羅夫(第一派の司令官)と共に天皇が百済に親征していたと考えられる。
  • その理由は↓
  • 日本書紀「天智称制元年」(662年)夏5月の記事に「勅」。

    • 「勅」を「宣する」、「継がせる」「撫でる」「褒める」「賜う」などは、至高の存在(天皇)の行為である。

    日本書記
大將軍 大錦中 阿曇比邏夫連 アヅミ 等 
率船師一百七十艘 送 豐璋ホウショウ 
 於百濟國宣勅 以 豐璋等 使 其位  
又 予金 策於 福信 而 撫其 背褒賜爵祿
(大将軍大錦中の安曇連比羅夫等が船170隻を率い扶余豊璋を百済まで送った。勅を宣し豐璋に百済国王の位を継がせた。また鬼室福信に金を与えた。それに加え、その背を撫で褒めて爵位と禄を賜った。)
つまり天皇が同行していてその命をうけて安曇氏がこのようにしたというのですね。
まあこの辺は九州で命を受けていたら同じことのような気もします。


  • 旧唐書には麟徳2年(665年高宗泰山封禅を行った際劉仁軌が、

  • 新羅百済耽羅・倭4国の酋長を率いて参加したと記録されている。
  • このとき唐にいた該当するような人物は筑紫君薩夜麻だけであり薩夜麻が封禅に参加した倭の酋長(天皇)である。

  • 筑紫君薩夜麻について帰国の記事だけで、その後の記録が一切無い。また他の捕虜帰国者のように褒賞も受けておらず、捕囚生活を労う詔等の記事もない。
 

この辺の不可思議な雰囲気のためにこんな説もあります。


「 7世紀まで九州北部に日本列島を代表する王朝があったとする古田武彦らの九州王朝説の主張によれば、


白村江で戦ったのは畿内ヤマト王権(日本)軍ではなく


大宰府に都した九州王朝(倭)軍であるとする。


しかし、日本古代史の学界からは史料批判などの歴史学の基本的な手続きを踏んでいないとみなされている」


しかしですね。


九州王朝を仮説として、もろもろの事象を見ると実にすっきり解決することもあります。もちろん、多くの不適合部分があり、学問的に不備なのだろうけど、学問的にちゃんと研究しても荒神谷遺跡が出るまで、出雲には何もなかったと言ってたわけですから。



九州王朝があると


①倭の五王をどの天皇に比定するかという問題がなくなる。もともと比定できないのだ。別人だから。と開き直ることもできる(笑)

天皇在位と五王在位は微妙に年代がずれいるが説明がつく。つまり五王とは九州王朝の王である。


②邪馬台国の後継国は九州王朝である。白村江の戦いで滅んだから、一緒に記録から抹殺された。


③古事記以前の記録、日本旧記など一書群はすべて九州王朝の記録書であるから奈良の王朝の記録にはない


④倭国、日本国の併記の説明もつく。九州王朝が倭国、近畿王朝が日本国。


⑤白村江の戦いのあと、2千人の唐軍が九州に来ているが、何のためにそんな大人数で来たのか不明だ。奈良には行かなかったのだから。

これは、倭国=九州王朝の首都大宰府に進駐し、九州王朝を解体させたのである。

近畿王朝は当然静観したのである。



さてそうなると壬申の乱とはなんなのかということになりますね。



筑紫君薩夜麻=大海人皇子という考え方があります。
帰国して
密かに日本国の王座を取り、倭国には唐軍がいるからそのまま奈良の王朝として、九州王朝の王が天皇になったというのです。
そのため神武東征の神話もあれば、応神も九州から来たとなり、九州王朝時代の事績は神功皇后の事績に閉じ込めて唐に、倭王が日本王になったとばれないようにしたとかなんとか・・・・

古代史の想像は無限です。




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一人灯のもとで古代史を紐解き探求しています。
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