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「日本古代史 邪馬台国と卑弥呼の探求」徐福が日本にやってきた雑感 文字はどこへ?

徐福が日本に来たとしたらそれは紀元前200年頃のことです。
日本では弥生前期が終わり弥生中期が始まる頃です。

秦という国は紀元前778年 - 紀元前206年の間、存在してました。

中国全土を統一したのは前221年ですから、そのわずか15年後に滅亡。
始皇帝は前210年に没。
徐福は始皇帝が統一してから死ぬまでの間に出発しています。

それにしても

こんなことなら統一しなければよかったですね。せっかく500年もの間、中国最強国だったのに
なまじすべてを支配したために滅びてしまった。
まことに権力とは恐ろしいものです。


さて徐福船団が到着したときの日本です。
言わずとしれた弥生時代。
徐福が紀元前210年頃に北としたらその後の日本は多くの影響を受けたはずです。

なにせ3000人で来たのです。(遭難や漂着もあったでしょうから減るでしょう)
五穀を持ち、技術者集団がいて、子供たちがいた。子供たちがいたということは、中国人の大人によって教育がなされるということですから、中国語を話し、中国語を書く人たちがたくさんいたわけです。当然都市、街をつくるでしょう。すでに孔孟も老荘もあり、道教や儒教を知った中国人集団が3000人で町を作り水田を作り何やら豊かに暮らす様子を、当時の倭人は見るわけです。
おそらくは鉄器や銅器も作る。

このような集団が忽然と登場するとどういうことになるでしょうか?

神々の拠点に思えるでしょうね。

そして必ず記録となる木簡や紙のようなものに文字を書いたはずなのですが、いまのところ徐福集団が残した文物は一切残っていないし、紀元前200年ごろに3000人の中国人が来て文字を使ったらその後それは相当ひろまったはずなのに、吉野ヶ里にも纏向にも唐子鍵にも荒神谷にもそんな文字ののった遺跡はありません。

それはおかしな話です。
たとえ徐福集団の都市遺跡が見つからないならそれもあるでしょうが、伝搬しないわけはないからです。

そして3000人の中国人がとどまったからその文化が伝搬した痕跡は朝鮮半島にもないようです。

徐福は日本に来てからは文字を使わなかったのだ

というのはあまりにも安直なご都合主義でしょうね。



徐福伝説の日本の場所
Wikipediaより

日本(弥生時代)

    • 京都府丹後半島にある伊根町も、徐福上陸の地と伝えられ、
    • 町内の新井崎神社付近は菖蒲や黒節のよもぎなどの薬草が自生していて、徐福はこの地で不老不死の妙薬を探し当てたとされる。
    • 先進的な文化や技術を習得していた徐福は村人に慕われたので、当地に上陸後、故郷に帰ることなく村に滞在したといわれ、近隣で麻疹が流行して多くの村人が亡くなった際に、徐福の神を新井崎神社に祀ったところ救われたと伝えられる。
    • 現在も徐福が祀られている新井崎神社に伝わる古文書『新大明神口碑記』に、徐福の事が記されている。[8]

徐福が上陸したと伝わる三重県熊野市波田須からは、2200年前の中国の硬貨である半両銭が発見されている。波田須駅1.5kmのところに徐福ノ宮があり、徐福が持参したと伝わるすり鉢をご神体としている。

徐福が信濃の蓼科山に住んでいた時に双子が誕生した。双子が遊んだ場所に「双子池」や「双子山」がある[9]



そしてこのどこからも文字は発見されていません。

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古荘英雄

一人灯のもとで古代史を紐解き探求しています。
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