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「日本古代史 邪馬台国と卑弥呼の探求」徐福船団の出港~ケース②長江流域を出発の場合  天孫族の船出

さて、前回は徐福の船団の出発地を
で考えました。
徐福出港地
黄海の北の秦皇島からの場合の推測。この場合は沿岸航海。最後の対馬海峡だけが難しい。
総計1100キロ以上の大移動ですが、沿岸航海ということで安全ではあったでしょう。


今回は上図の長江流域を出発した場合です。
ここから東に向かう航海というのは、東シナ海を横断して850キロを外洋航海。
とても危険な航海に思えます。
なぜならこの航海というのはのちの世の遣唐使の帰路です。たくさんの遣唐使が
長年にわたって学んだ知識、貯め込んだ文物とともに海の藻屑と消えた海路なのです。

しかし一方で、20世紀の後半、ベトナムのボートピープルや、中国の難民たちが、ぼろ船で難なく漂着したルートでもあります。一時期中国のぼろ船が何度となく有明海に漂着したという出来事がありました。そのルートでもあります。

つまり突然の台風とか天候の崩れがなければ結構簡単なのかもしれません。

徐福長江から 
直線距離だと850キロ。実際にはこんな風にはいけないでしょうね。もっと沖縄方面から北上とか、もっと対馬海峡に流されるとか。
仮にこのルートで移動していたら、途中から黒潮に乗りますから、制御不能になるかもしれません。
黒潮 

黒潮は時速7キロのスピードで流れています。
歩く速さが時速4~5キロ。小走りをず~っと続けるスピードです。もしこれに乗れば
船にエンジンがつくようなものです。
120時間で850キロの距離をおおむね移動できます。ということは、5日で長江から九州に到着します。

遣唐使の船の場合も
これは日本から長江あたりまで季節風を利用したケースですがやはり5日ほどで到着しています。

つまり九州と長江は片道5日の航海なのです。
季節風が日本に向かって吹き黒潮を利用する場合は、長江から九州まで4日で到着することもあったかもしれません。
なにせ、船ですから24時間移動できるわけです。

もちろん長江から九州に向かってまっすぐ黒潮が流れるわけではないし、季節風もそのきせつ単一に吹くわけではありませんが、

当時の航海術の最大のポイントはおおむねこういうことでしょう。

1.潮の流れを読んで利用すること
2.季節風をよく知っていること
3.潮の流れと季節風を組み合わせて操縦を考えること。

これを知っている人たちは海の人たちですね。
秦の人は内陸国家ですからこれを知りません。
徐福自身も今でいうと薬剤師みたいなものですから知りません。

長江から日本への海路など徐福時代の紀元前220年頃に確立されていたのだろうか?
とも思いますけど、それが確立されていたとしたら!!
という前提で考えてみましょう。
きっと
徐福はこういう航海ができる人を事前に見つけていたでしょう。

*呉や越は秦の統一前にほろんでいるのですが昔からこのゾーンは航海にたけた人々がいたようです。
当然呉や越の末裔の海の人々に力を借りたのでしょう。

内陸人徐福が東方に向かって船団を出すという決断をするには

コロンブスがアメリカ大陸に向かって出航したのと同じくらいの
自信と目算があったと考えるのが妥当でしょう。

その海路を知っていたのは
海のシルクロードを移動する人たちでしょう。
黒潮 長江あたりから東に向かうと九州島行きつきます。
黒潮は赤のLine。これが時速7.2キロで流れているのであるからちょっと油断すると巻き込まれて
あちこち行きます。
たとえば
黒潮に流されると
①出雲
②丹後
③日向
④鹿児島
⑤高知
⑥紀伊半島

でも最短をうまく進めたら長江からみた九州の正面、有明海に到着します。
磐井の乱の磐井の時代、南朝から磐井の元にやってくる船は、
島原半島の雲仙を目印に
有明海に到着して磐井の本拠地八女に向かったとのことです。

徐福が長江から出発したら、およそ5日で有明海に直接到着します。
3000人の大部分は有明海に到着したのではないか。
仮に50人づつ60隻の船団なら
35隻以上は有明海に到着。
残り15隻以内は黒潮に流され、和歌山や高知や、鹿児島や宮崎や、出雲丹後方面へ上陸したのではないか。

有明海沿岸の佐賀県には、徐福上陸伝説があります。
佐賀は有明海沿岸の広い平野です。まあ有明海沿岸は熊本平野も広く豊かな土地ですね
まさに850キロの航海のあと上陸する必然性の高い土地なのです。

佐賀 


①●浮盃(ぶばい)の地名の由来(佐賀市諸富町)
有明海にたどり着いた一行は、盃を浮かべて流れ着いたところから上陸することにしました。この故事から人々は盃が流れついたこの地を「浮盃(ぶばい)」と呼ぶようになりました。

●片葉の葦の伝説(佐賀市諸富町)
上陸した一行は生い茂る葦を払いながら進みます。片側だけを払ったので、以来この辺りの葦は片葉となります。現在でも寺井津の土手沿いに生え、伝説を裏付けるように片葉のみで生い茂っています。

③●御手洗いの井戸(佐賀市諸富町)
水を使うため、一行は井戸を掘り手を洗います。これが「御手洗いの井戸」で、今でも手厚く奉られています。佐賀市諸富町寺井の地名は「手洗い」がなまったものだと考えられています。

④●新北(にきた)神社の神木「ビャクシン」(佐賀市諸富町)
徐福は上陸の証として「ビャクシン」の種を植えます。「ビャクシン」は、勢い良く芽をふき、大きく天に向かって栄えたといわれています。「ビャクシン」は元来暖かい地方の樹木で、国内に自生する例はほとんどなく、樹齢2200年と推定される古木はさらに全国でも珍しく、不思議に徐福伝説と符号します。「ビャクシン」は、新北神社の神木で現存しています。

佐賀平野に徐福船団の主力が上陸してそこで農耕を始めたら佐賀平野で水稲の遺跡がやがて発掘されるはずですが、それはまだですね。でも吉野ヶ里遺跡が発見されるまで佐賀には何もないとされていたのだからまだわかりません。

佐賀県は福岡県ほど開発がされているわけでもなく、遺跡が見つかる確率は低いのです。
おまけに佐賀平野と筑紫平野は2000年くらい前には湿地であったらしく、海岸線すら、変化しているようなので、徐福たちがおこなった水田跡など見つかり様がないかもしれません。

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一人灯のもとで古代史を紐解き探求しています。
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