FC2ブログ

「日本古代史 邪馬台国と卑弥呼の探求」官の名前から見る邪馬台国

官名が倭人伝には記載されています。
3世紀の倭の国の官の名前。
これを考えると、奴国や一支国など別々に国はあっても、邪馬台国から行政長官が派遣されてきているようにさえ見えます。
もし奈良ならば、その考え方で行くと、奈良の邪馬台国が九州の国々に長官を派遣するか、もしくは現地の王を、役職に任じていたわけですね。
もしそうなら3世紀にヤマト王権は完全に成立していることになります。
そしてそこまでの九州支配ができていたのにも関わらず、景行天皇、ヤマトタケル、仲哀天皇、神功皇后の九州遠征がのちのよに行われるのです。おかしな話ですね。
ダウンロード (2) 

始度一海千餘里至對海國其大官曰卑狗副曰卑奴毋離所居絶島方可四百餘里土地山險多深林道路如禽鹿徑有千餘戸無良田食海物自活乗船南北市糴

 

そこではじめて海を渡り、千余里で「対馬国」に至る。その大官は「卑狗」といい、副は「卑奴母離」という。住んでいるところは四方四百里あまりの広さの孤島である。その土地は山が険しく、深い林が多く、道路はけもの道のごとくである。千余戸がある。良い田が無く、海産物を食べて自活し、船に乗って南北と交易している。

又南渡一海千餘里名曰瀚海至一大國官亦曰卑狗副曰卑奴毋離方可三百里多竹木叢林有三千許家差有田地耕田猶不足食亦南北市糴

 

つぎに南に千里あまり、「瀚海」という名の海を渡り、「壱岐国」に到着する。ここの官もまた「卑狗」といい、副は「卑奴母離」という。四方三百里ほどである。竹や木の叢林が多い。三千ばかりの家がある。田地は少々あるが、田を耕すだけでは食料が不足するので、南北と交易している。

 

又渡一海千餘里至末盧國有四千餘戸濱山海居草木茂盛行不見前人好捕魚鰒水無深淺皆沈没取之

また海を千余里渡って、「末盧国」に到着する。四千戸あまりある。人々は浜と山海に暮らしている。草木が繁っていて、道を歩くと前が見えない。人々は魚やあわびを捕えることを好み、水の深浅は関係なしに潜ってそれらを取っている。

ここには官がいません。伊都国に支配された倭の九州島の玄関口。いやあるいは一支国が支配する一支国の九州島の出先機関だったかもしれません。


東南陸行五百里到伊都國官曰爾支副曰泄謨觚柄渠觚有千餘戸世有王皆統屬女王國郡使往來常所駐

東南に陸を五百里いくと、「伊都国」に到着する。官は「爾支」といい、副を「泄謨觚」「柄渠觚」という。千戸あまりである。代々国王がいて、みな女王国に統属している。ここは帯方郡の使者が往来する時には、常に駐まるところである。

このニキが二二ギのことであるという説も根強いものがありますね。つまりそうすると天孫降臨とは糸島地区への上陸のことであるとなります。ではどこから?一支国からです。すると一支国が高天原という仮説も成り立ちますね。


東南至奴國百里官曰兕馬觚副曰卑奴毋離有二萬餘戸

東南にいくと「奴国」まで百里である。官は「兕馬觚」といい、副は「卑奴毋離という。二万余戸である。

対馬と壱岐は官命が同じで奴国においても副官は同じ。さらに不彌國も副は「卑奴毋離」です。このあたりなんだか奴国連合に伊都国が割り込んできたような印象を持ちます


東行至不彌國百里官曰多模副曰卑奴毋離有千餘家

東にいくと「不彌國」まで百里である。官を「多模」といい、副は「卑奴毋離」という。千余戸である。

南至投馬國水行二十日官曰彌彌副曰彌彌那利可五萬餘戸

南へ水行二十日で「投馬国」に至る官は「彌彌」、副は「彌彌那利」という。五万余戸である。

このミミこそ、神話や天皇についた耳ではないのかと思ってしまいます。投馬国こそ天皇家の祖先であるからこそ、神武東征の出発点は宮崎=投馬国である。出雲説も根強いですがそれもまた神武と綏靖天皇の皇后は出雲出身でもあり、面白い符号です。

南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮可七萬餘戸

南にいくと「邪馬台国」に至る。女王の都するところだ。水行十日と陸行一月である。官に「伊支馬」がある。次は「弥馬升」、次は「弥馬獲支」、次は「奴佳鞮」という。七万余戸だろう。

官命をキーにした研究も盛んですね。杯の種類でもって後世の爵位と同じような体系を作っていたというのもありました。侯爵、公爵、伯爵、男爵、子爵という風に爵で表現しています。同じく馬に対応する音のものによって表現したとかですね。


副官は卑奴毋離がたくさんいます。
これは火守であり、烽火の火を管理するものが副官なのだという説があって、それが好きですね。火の管理と烽火の内容を送る立場の人間は、国にとって重要情報をおくる立場の人間、重要ポストのものがみずから行っていたと考えておかしくないでしょう。これを作為されると偽情報が伝わっていくわけですから。

壱岐と対馬は
卑狗
ヒク。なんなのでしょうね?
まったく日本語と成り立ちません。

奴国の官は「兕馬觚」
しまこ せまこ
日本語として成り立ちませんよね。

伊都国では副を「泄謨觚」「柄渠觚」
これは奴国の官にそっくりですし最後の漢字は同じです。
強いつながりを感じます。
官はニキですからニニギだろうとなるわけです。

「不彌國」の官は「多模」
このあたり九州北部と想定されるゾーンはなかなか日本語っぽくない、むしろ出雲あたりの語感と似たような感じの名前ですね。

邪馬台国については
官に「伊支馬」がある。次は「弥馬升」、次は「弥馬獲支」、次は「奴佳鞮」

5世紀以降の倭に登場するものとほぼ何一つ一致しないのがすごいことです。



にほんブログ村 歴史ブログ 考古学・原始・古墳時代へ
にほんブログ村

スポンサーリンク

コメント

非公開コメント

古荘英雄

一人灯のもとで古代史を紐解き探求しています。
魏志倭人伝、日本書記、古事記をもとに考えたこと、語りあったことなど
徒然に記します。

スポンサードリンク

プロフィール

古荘英雄

Author:古荘英雄
一人灯のもとで古代史を紐解き探求しています。
魏志倭人伝、日本書記、古事記をもとに考えたこと、語りあったことなど
徒然に記します。

ブログ村ランキング参加中

ブログ村古代史ランキング参加中

PVランキング参加中

ブロとも申請フォーム

検索フォーム

QRコード

QR