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宇佐神宮と秦王国②邪馬台国宇佐説の周辺

秦王国は大宰府か?


さて秦王国は宇佐あたりではないかと思うのだが、大宰府説というのも根強い。

というのも半島からあと、南の方向をことごとく東と表現しているからです。

対馬までは南に行くのですが

対馬から東へ壱岐、壱岐から東へ筑紫、筑紫から南へ秦王国

だからこれは南への行程であり、筑紫の南は大宰府であり

その大宰府たるや

条里制の都市に中国風建物や寺院が並んでいたから間違いないというわけですね。


この指摘は二つの点で齟齬があります。


方向は東である


地図参照

東へ


黒潮を利用しながら移動する、あるいは黒潮の動きに気を付けながら移動する。そして海路は東方へ向かうので、方向はあっているのです。


大宰府はいつからあるか?


遠の朝廷という名前だから九州王朝の首都という説もあったり、むか~しからあるというイメージがありますが、案外新しいのです。


Wikipediaより

大宰府(だざいふ)は、7世紀後半に、九州筑前国に設置された地方行政機関。和名は「おほ みこともち の つかさ」とされる。多くの史書では太宰府とも記され[1]、おもに8世紀の大和朝廷内部で作られた史書で「大宰府」と記されている。


遺跡からも7世紀後半からのようであり、ここに政庁を作ったきっかけは

天智2年(663)、白村江の大敗戦の後、水城や大野城とともに造られた防衛都市。

その後整備拡充されたと考えられています。

そしてその後は強大な地方権力となりますね


  1. 外交と防衛を主任務とすると共に、西海道9国(筑前筑後豊前豊後肥前肥後日向薩摩大隅)と三島(壱岐対馬多禰(現在の大隅諸島824年に大隅に編入))については、(じょう)以下の人事や四度使の監査などの行政・司法を所管した。与えられた権限の大きさから、「遠の朝廷(とおのみかど)」とも呼ばれる。
  2. 軍事面としては、その管轄下に防人を統括する防人司、主船司を置き、西辺国境の防備を担っていた。
  3. 外交面では、北九州が古来中国の王朝や朝鮮半島などとの交流の玄関的機能を果たしていたという背景もあり、海外使節を接待するための迎賓館である鴻臚館(こうろかん)が那津(現在の博多湾)の沿岸に置かれた。


全国に大宰はあった

あちこちに強大な地方行政のための政庁はあって、吉備大宰、伊予総領、周防総令などがあったのですが701年の大宝律令によって、九州以外の大宰は廃止され、それ以来「大宰府」と言えば九州のそれを指すようになりました。またそれぞれの地域の大宰はみな遠の朝廷と呼ばれていたので、九州だけが特別だったわけではありません。

Wikipediaより

大宰(おほ みこともち)とは、地方行政上重要な地域に置かれ、数ヶ国程度の広い地域を統治する役職で、いわば地方行政長官である。大宝律令以前には吉備大宰(天武天皇8年(679年))、周防総令(天武天皇14年(685年))、伊予総領持統天皇3年(689年))などあったが、大宝令の施行とともに廃止され、大宰の帥のみが残された。

この

おおみこともち

という言葉の意味はなんなのでしょう。関心があります。


九州統治機関の変遷


さて大宰府以前には、つまり7世紀よりは前は九州を統治するための機関はどこにあったのでしょうか。

かつて卑弥呼の時代、九州説でも近畿説でも、一大率が置かれていたのは伊都国です。

糸島半島の付け根ですね。

ここは後世の大宰府と同じ機能を果たしていました。そのままずっと伊都国の一大率があればいいものを、なぜなくなったのでしょうか?逆に言えば伊都国没落の原因はなんだったのか?

面白そうなテーマです。


大宰府の直前までは糟屋屯倉というのがありました。

どうもここが北部九州統治のための役所の場所だったようです。

磐井の乱で。敗戦後に磐井の息子がこの倉を朝廷に差し出すことで一命をとりとめたという逸話があります。

磐井の乱は

528年ですから6世紀の初めですね。この頃に大宰府というものは確実にありませんでしたね。

もしあれば磐井も最初に大宰府を襲うでしょうし、そもそも大宰府があれば磐井の乱など不可能です。


大宰府と糸オック 

平原遺跡の場所を伊都国としています。壱岐から到着する帯方郡や半島の人間の関所としては最適な場所でしょう。が、やがて糟屋へ移ります。糟屋というのは神功皇后のゆかりの地域です。この屯倉の場所は神功皇后の休憩場としての神社の50Mくらいのところにあります。

そしてこのすぐ南はその居城である宇美町です。応神天皇を産んだからウミと呼ばれているそうです。

地図で言えばちょうど糟屋と大宰府の真ん中のゾーンが宇美町。そして不弥国と言われている地域です。

白村江の戦いのあとの大野城、水城、大宰府は防衛Line上にありますね。

もし唐軍が上陸して、倭国侵攻をするならここで食い止めるのだということでした。

後日鎌倉時代に元寇があり、元の軍はまさに大宰府をまず落とそうと目指したそうです。

しかし海岸線の防衛ライン防塁を越えることができず、志賀島停泊中に沈んでしまいました。


秦王国は大宰府ではありえない


地政学的に大宰府とは軍事のかなめになるのですね。
ということはそんな戦略的な場所を渡来人に自由に街をつくらせるわけはないでしょう。
渡来人が占領したという説もありえますが、倭国の最重要ポイントの場所に勝手に都市をつくるために侵攻するなら、1万人以上は必要でしょう。白村江に出撃した倭人は25000人もの大軍でした。

秦王国は単純に筑紫の東である

結局前回の考察に戻ります。
秦王国は遠賀から宗像のあたりか
あるいは宇佐です。
宇佐平野は現代でも大分県最大の穀倉地帯であり豊かな土壌があり、銅もとれ、黒曜石もある。
縄文以来の豊穣の大地なのです。

そしてここで秦氏が倭国での活動を始めたのだと思います。

続く・・・・・


宇佐神宮と秦王国①邪馬台国宇佐説の周辺


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一人灯のもとで古代史を紐解き探求しています。
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