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宇佐神宮と秦王国①邪馬台国宇佐説の周辺

遣隋使と聖徳太子


聖徳太子が派遣した遣隋使は、隋から次のようなことを言われます。

「裴世清」の画像検索結果

「夜に政治をするなど野蛮である。朝貢の資格さえないといっていい」
この言葉に倭国は衝撃を受け、文明的な政治体制に切り替えたとする説もあります。
この時倭王は 多利思北孤 です。こんな名前ですがこれが聖徳太子でないとつじつまがあわない。でも違いするぎるからこの人は九州王朝の王であるという話もあります。
このとき
日出處天子致書日沒處天子無恙云云の有名な文章が国書にあったのですが
この直後にこの文章があります。

明年 上遣文林郎裴清使於俀國 度百濟 
行至竹嶋 南望耼羅國 經都斯麻國 迥在大海中 
又東至一支國 
又至竹斯國 
又東至秦王國 
其人同於華夏 以爲夷州疑不能明也    — 隋書 列傳第四十六 東夷 俀國

翌年 608年に、裴清を倭国へ派遣したとあります。隋の使節ですね。
ルートは
百済から竹嶋に到り
南に耽羅国と都斯麻国(つしまこく?)(対馬)を経て
対馬海峡に至る。
そして東に一支国(壱岐)、竹斯国(ちくしこく?)(筑紫)、

と、この辺までは魏志倭人伝の倭国への道程のような書き方です。博多に至るという感じですね。
問題はその次の一行です。

また東で秦王国へと至る。
その人々は華夏(中国人)と同じようで、なぜこんな野蛮な地にいるのか不思議だ、わからない。

邪馬台国に劣らず、とても興味深い一文ですが、これ以上何も書かれておらず、研究のしようもないのか話としては盛り上がりません。

日本書紀』にも記載されています。裴世清来日の件。

「その12人の一行は小野妹子とともに筑紫に着き、6月15日難波津に泊まった。(瀬戸内海航路で向かったのですね) 船30艘で歓迎、新館に泊めた。8月3日に京に入った。

鴻臚寺掌客」である裴世清の「皇帝問倭皇」という書を阿部臣が大門の机の上においた。9月5日に難波大都に、11日に帰った。」

まさに国賓待遇の隋の使節でした。その人の見聞録に秦王国があったというのです。


秦王国は宇佐にあった


ではどこにあったかと言うと、これはもう筑紫の東と言ってるのだし、奈良へ行く途中なわけだから、下図の1か2しかないでしょう。筑紫の隣というイメージですから。吉備や安芸のことではないでしょうね。
秦 
筑紫の東と言えば筑豊の海岸線、つまり宗像あたりから遠賀川河口ゾーンか
あるいは宇佐から京都郡への弓なりの海岸線沿いか
どちらかしかないわけです。
で、どっちなのでしょう。

この宗像あたり、岡田宮があったあたりは古代には遠賀川の河口流域はもっと巨大で、多くの港が栄えていたといいます。
またなんといっても沖ノ島へ海上ルートを持つ地域であり、古くから海外との交易は盛んでした。
秦王国というからには秦の時代に亡命したのではないか。
朝鮮半島の三韓時代の辰韓はもともと秦韓であり、亡命華人たちが馬韓の王から土地をもらったことがはじまりだとか。やがてそれが新羅となり馬韓の後継国百済を滅ぼし半島を統一します。
さて、秦韓の一部がさらに倭国へ来て、秦王国をつくったのだろうと思います。
中国語を話し、風俗まで中国風であるというのは、100人以上の集団で移住してきたということです。

さてでは
宇佐あたりなのか
宗像なのか

秦王国
幻の邪馬台国ならぬ
幻の秦王国

これには
幻の豊王国の存在抜きには語れない気もしています。

ご存じでしょうか
葦原の中津国とはすなわち
豊王国であるという説を。    この話続く・・・・

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コメント

青木朔娘

瀛洲に嬴一族・・・?
 このマップ画像はエーベルさんですね?ご無沙汰してますフーニャンです。FC2では青木朔娘(さくら)です。諸事情があってコミュからはしばらく遠ざかってしまいました。おかわりありませんか?
 倭の領域にあった秦王国というのは、とても興味がわきます。古代に大きな謎を落とし込んで、古代史ファンを喜ばせてくれますよね。
 邪馬台国宇佐説で日本と秦王国を結び付けるというのは面白そうです。確かに秦一族は、日本の成り立ちに深くかかわっていそうです。
 秦という漢字は拼音でQinですが、qingという表記もあります。これは青と同じ音ですね・・・まぁ北京の方言で論じるのもなんですが、私の勝手な推測で、秦というのは目の色が青い種族だったのではないかと思うのです。ローマを大秦としたり。
 そういえば、西洋では遠近を大小で表す習慣があるらしいし、もしかしたらローマと秦は同じ民族?グレートブリテン人とフランスのブルトン人のように、大秦人と中華の秦人みたいな・・・すいません、妄想です。
 それでも戦国七雄の秦は本来の華夏族ではないし、きっと西域から入り込んだ人々ですね。西域で見た古い中国人将軍のミイラが、とてもデカイのには驚きました。西域の墓から出るミイラはどれもデカイのです。乾いて縮んでいるはずなのに。あれはアーリア系なのでしょうか。
 そういえば、新羅も秦族といわれますね。馬韓から土地をもらったということですが、そのわりに別系の韓になってるし、小国の集まる韓というくくりが気になります。新羅の母体はサロ国。新羅の文物はユーラシア交易の影響を強く残しているし、別系の遊牧系秦人だった可能性もありますかね。
 チクシの東にあった秦王国の人は夷州の華夏。金官伽倻の王家の血を引く金庾信は少昊の末裔で、確か日本を指す瀛洲も少昊の領地とされていました。大昔から九州あたりに華夏人がいたかもしれませんね。以前TVで、現代でも漁民が流されて日本に漂着してるとか言ってた気がします。瀛洲に嬴一族も流された・・・?

筆者

お久しぶりです
このブログはエーベルバッハ少佐とジョン男爵とヒットエンドランの3人で共作しております。(笑)
地図を作るのはエーベルですが文章は三人で回し書きです(笑)
今は徐福をやっています。ミクシーは最近ブログが忙しくてやっていません。

秦はもともと紀元前700年頃?っくらいにできて統一は前200年ですね。
その国家システムはペルシャ帝国を参考に作られており、中国政界ではアドバンテージになったようです。西にあるから、ペルシャ文明との交流があったのでしょう。いわゆる色目人ですね。
当時のペルシャは世界帝国であり、ユダヤ人などペルシャ帝国においては、ロシア帝国におけるアゼルバイジャン程度のものだったでしょうか。

それにしてもハタという言葉はペルシャを表すようですね。秦は完全な当て字であり、日本においてはハタ=ヒッタイトのような人々のことを表していたと思います。

青木朔娘

ハタ
三人さま共作ブログだったのですね。懐かしいです。ブログだとテーマをタイトに絞れるので、自分の世界を思い切り発揮できますし、一般も閲覧できるし、力が入りますね。

ハタは海を意味するのかと思っていましたが、ペルシャ・・・波斯なんですね。
消えたヒッタイトが秦さんのルーツだったら面白いですね。いつもいつも、ツボにはまる説をありがとうございます。
前1200年のカタストロフで地中海から逃れるとしたら、カフカスを越えるか、イラン高原に向かうか・・・鉄をひっさげた民族は一体どこに消えたのか、まぁ、いずれトルコ系のルーツなのだと思うのですが、秦もまたその枝分かれ・・・?そういえば、言語的にトルコ語は日本語に近いとか。

古荘英雄

Re: ハタ
秦の統一は2前226年ごろで、建国自体は前778年。
ペルシャ文化を知った中央アジアの人が政策運営に混ざっていたのは間違いないでしょうね。

去年平城京の跡地から波斯と書かれた木簡が見つかり騒がれてました。
平城京の役人にペルシャ人、もしくは中東からの、人がいたのはまちがいないようですね

ジョン男爵

青木朔娘様
ご無沙汰です。ジョン男爵です。このブログではミクシーと違って穏和にのどかに自説開陳をしております。これからもよろしくお願いします。

青木朔娘

亡命の秦族
 平城京にペルシャ人!・・・もっとも、日本はシルクロードの終点だから、いたかもしれませんね。交易はとても儲かるらしいので、命をかけて渡るのだとか。

 ジョンさん、ご無沙汰です。三人さまのブログを昨日みつけて楽しませていただきました。いつも理解し合っているご様子で羨ましいです。

 徐福説では滅亡した始皇帝の「秦」か、あるいは徐福の率いた「秦」が国譲りを迫ったというお話ですね。
 「秦王国」のお話はとても興味深いので、私もついつい考えてしまいました。日本神話は、西日本を知らない私には論じることのできない世界なのですが、中国史は好きなもので、そこをつまみぐいです。

 くだんの「秦王国」が史書に登場するのは「隋書」で、卑弥呼とか五王の時代には登場しないのですね。始皇帝の「秦」が滅亡してから800年も後の世界に、中華の習俗を残したまま日本のどこかにあったわけです。
 よくよく考えると「秦王国」というのは、氐族の「秦」という可能性もアリですね。まぁ、考え方のひとつなので参考までに。

 前秦は五胡十六国時代華北の混乱を最初に終息させましたが、王猛が注意したにもかかわらず苻堅が欲を出して南に手を出し失敗し、再び華北を大混乱に陥れました。
 北朝の王様は「天王」です。日本の「天皇」という称号は武則天が暗躍した唐代に倣ったものらしいですが、それは南朝の「皇帝」と北朝の「天王」のミックスですね。北朝は周王朝と同じく生成のベースが「天」なんだと思うのです。森林に「神」をみいだす私たちには理解できない「天」。乾燥する北には玄なる宇宙が広がっていて、天文が神となっているような気がします・・・たぶん。
 この時代は北の民族が南下を目論む時代でしたから、寒冷化か何かあったのでしょうね。中原を追われた後、「天王」の一族は朝鮮半島から南下し、卑弥呼が統一した「倭」・・・というかトヨ?豊の国?をのっとった可能性もありそうですね。海ではなく馬の民族が?という話は江上波夫氏の説が面白いです。
 「新羅」は「秦」に朝貢していたようですから亡命を受け入れて協力したかもしれません。亡命「秦」族に、好太王碑文に書かれたような「倭」の仕打ちに対する報復を委ねて船を用意した・・・かも?
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古荘英雄

一人灯のもとで古代史を紐解き探求しています。
魏志倭人伝、日本書記、古事記をもとに考えたこと、語りあったことなど
徒然に記します。

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