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倭人とは対馬海峡の海洋民のことだ

幻の呉書倭人伝

三国志の中で倭人について書かれているのは魏書だけです。

蜀は内陸の国だからともかく、呉は長江河口に本拠地を持ち、台湾あたりまで、屯田兵を送ったという言い伝えもあるくらいだから、九州や少なくとも琉球諸島について、記述があってもようさそうですが、シナの大陸にとっては、海は関心のないものだったのでしょう。

図表転載元

呉書倭人伝もあって、琉球から日向あたりの記述があって、魏書倭人伝と照合できたらとても楽しかったと思います。

海洋国家と陸の国家

ところで

やがて11世紀頃の南宋の時代に、アラビア商人が船でやってくることから長江河口の南宋自身も海洋帝国のようになり、この海洋国家を元はずっと滅ぼすことができませんでした。

参考元 日宋交易図

「南宋の交易」の画像検索結果

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九州の海外交易の歴史は古く、中世を通じて九州の人々は長江流域との交流があったわけです。

海洋交易はアラビア、インド、日本と行われ、日本から昆布などが大量に流出されていたようです。日宋貿易です。平清盛です。その後は鎌倉幕府の時代になっていきます。

「南宋の世界交易」の画像検索結果

南宋は金によって黄河流域から長江へと追いやられるのですが、ここから南宋は、ベトナム、インド、アラビアとの交易を行い、経済超大国でした。https://www.sekainorekisi.com/my_keywords/%E5%8D%97%E5%AE%8B/より



この海洋国家は陸の軍事国家に対峙できるという例を世界史でいくつもみることができます。

海洋国家 陸の国家
アテネ スパルタ
ベネチア トルコ
カルタゴ ローマ
奈良
唐・新羅
前半の明 北元や清
イギリス ドイツ
アメリカ ロシア

細かく言えばいろいろありますが、おおむね上記の対立は海と陸の対立だと思います。
そしてアメリカと宋・明を除けばどの海洋勢力も貧相な土地ゆえに海洋交易を命綱にしていました。
宋も南宋となれば陸はモンゴル世界帝国が支配していたから海洋交易が死活問題でした。

さてベネチアのような都市国家でもトルコという大陸軍国をあいてに水際であれば戦えていました。
コンスタンチノープルの最後の抵抗戦も主力はベネチアのやジェノバの人々でした。もしスペイン艦隊がやって来ていたら数年は持ちこたえたかもしれません。コンスタンチノープル自体が黒海と地中海をつなぐ場所にあった海洋都市でしたし。

アテネ海軍はスパルタ陸軍より効率的な軍でした。
大英帝国の海運ネットワークにはドイツやロシアはかなわなかった。
カルタゴも政治的失敗がなければローマにやられることもなかったかもしれません。まああれは近すぎたというのもあります。フェニキア人の拠点が今のイスタンブールであればローマに滅ぼされるのはずっとあとだったでしょう。

海洋民の特徴

海洋国家は海洋交易によって莫大な富や技術を蓄えます。
そして船ごとの兵団構成により、10人から50人くらいの軍団構成が日常的にできるわけです。
そして船長というリーダーが日常的にいるし、航海担当、見張り担当、食料確保担当など、船の運営、船団の運営というのはそのまま軍隊の運営です。
だからこの海軍は陸の国が農民などを兵士にして攻めてくるより強い。陸も遊牧民の場合は、陸の海軍のようなものです。移動するから日常的にリーダー、役割分担が自動でできる。
農民の大陸国家が一番戦いに弱いわけです。

船団があると、さらに交易品や現地の情報収集、そして星や月を読んで航海して、船をつくるから大工や建設技術が巧みで、潮や風の動きや雲の動きに敏感で天気予報ができる。
まあ船団は陸の民よりも明らかに強いわけです。
バイキングがヨーロッパを席捲したのは当然だったでしょう。

さて倭人です。

対馬海峡の両岸地域こそ倭人の本丸だと思うのです。
弁韓=任那=加羅の地域 半島南岸です
そして
対馬
壱岐
九州北岸=唐津から糸島、博多湾から宗像あたりまで
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このゾーンに住む海洋民が鉄器をいち早く手にした列島人です。
ここから出雲や丹後に行くのが、2世紀よりも前。
丹後半島には赤坂今井古墳があり、海洋交易の痕跡があります。
国内最大級の質量のガラス品が見つかっています。
人によっては丹後あたりの地域には古代に大丹波王国があったとする説を唱えるひともいます。
ダウンロード 79326343_216.jpg

海部氏の拠点も丹後半島、つまり赤坂今井古墳は海部氏の古墳なのでしょう。
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復元図ですが海の民。それも異国情緒たっぷりの!!
これが海部氏でしょうね。
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そして海部氏は尾張氏と同祖であるとありますから
海部氏は近江の琵琶湖あたりの伊勢遺跡や稲部遺跡を経由して尾張伊勢に行ったのでしょう。
このルートが海洋民上陸ルートと言えるわけです。
こんな海賊のような人たちが稲作の場所のために上陸した事績が天孫降臨だと思うのです。

だから対馬あたりの鉄器をもった船団があちこち渡り歩く話ということです。
すると丹後と出雲、出雲と対馬海峡の関係がどうだったから
そんなことを考えていきたいと思います。

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コメント

囲炉裏端

>海部氏は近江の琵琶湖あたりの伊勢遺跡や稲部遺跡を経由して尾張伊勢に行ったのでしょう。

尾張伊勢。伊勢は奈良へ、尾張は河川により琵琶湖や内陸部奥の各地域へ、三河は静岡関東へ繋がり、ハブ地域ですね。
ここ伊勢湾に、伊勢-尾張-三河を連絡する三角航路があれば完璧ですね。

瀬戸内海航路と日本海航路の盛衰に、尾張勢力が奈良か琵琶湖のどちらを向いたかも影響した感じがします。
航路途中の交易の機会が多い瀬戸内海が漸次優勢に・・・、これに従い尾張勢も奈良との関係が強くなっていった。

"""琵琶湖東岸&出雲""と、""瀬戸内海&奈良""の盛衰は逆相関かなと。"
神武東征や国譲りはこのあたり状況がベースにあったかななどと。

作者より

出雲と丹後が言ってみれば喜望峰のようなもので
瀬戸内海はいわばスエズ運河みたいなものだったかもしれないですね。

古い幹線道路はやがて新しい幹線道路ができるとすたれる

でも江戸末期まで新潟から山口への航路は大動脈だったことを考えると
わたしたちが歴史を考えるときも明治以来の近代のくびきにかかってるような気がします。
新潟と能登、丹後、出雲、山口と
長州藩の財源はまさに北回り航路の関門海峡通過時の関税でした

囲炉裏端

>古い幹線道路はやがて新しい幹線道路ができるとすたれる
すたれたとは言え、北前船のような交易路は健在だったでしょうね。
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古荘英雄

一人灯のもとで古代史を紐解き探求しています。
魏志倭人伝、日本書記、古事記をもとに考えたこと、語りあったことなど
徒然に記します。

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