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奴国とはなんだろう?①漢倭奴国王の金印「日本古代史 卑弥呼と邪馬台国を探求する」

奴国王が倭王の時代

奴国王は57年に漢から金印をもらいました。

このことにはいくつかの重要なことが示唆されています。


1.その日本側の出港の場所はどこでしょうか?

伊都国から唐津を経由して壱岐対馬に行って半島に行くのではなく(当時は楽浪郡に行っただろうから)

志賀島から、沖ノ島あるいは壱岐へ行き、対馬経由で半島だったかもしれない。 


2.奴国王=倭王であるということは、

 後の世に邪馬台国王=倭王だった時を考えると、

 倭王とは対外的称号であり、

 国内的に倭の地の代表ではないかもしれない。

 最大勢力が倭王の称号をもらいに行くのではなく、

 もっとも航海術にたけた国が行くという図式。

みながみな行くものでもなく、対馬海峡越えはハイテク技術だったと思います。

 →すると安曇族こそ倭王、また宗像族こそ倭王

  あるいは壱岐か対馬の海人族こそが倭王だったかもしれない

  いずれにしても、魏志倭人伝によるとおそらくはこの1世紀のころはまだ

  100の国がありました。その中のもっとも航海にたけた国。


3.107年には倭王帥升が朝貢しているが、これは奴国の王だろうか?

*Wikipediaより
安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見 [2]安帝の永初元年(107年)、倭国王帥升等が生口160人を献じ、謁見を請うた。

帥升とはだれか?これは名前?役職名という説もあります。

間違いなくスサノオのことだという説もあります。
でもそしたら57年に金印を受けたのはスサノヲのより前になる。
そうなるとスサノオの前にいた倭王とは?それは誰なのだろう。
そのときの倭王は天之御中主か?

帥升についての情報は上の後漢書のみであり、あとで諸々の史書に登場するが後漢書を引用編集しているに過ぎない。
こんな風に存在はするがどこのだれかわからない、こういうことがたくさんあるので日本の古代史は面白いのです。
大国主やスクナヒコだって、具体的にはよくわからないわけですから。

でもまあ個人的には帥升は奴国王だと思うのです。
金印をもらった王の50年後の子孫ですね。
でも57年の朝貢は金印をもらったが。107年の朝貢は金印授与等書かれてないから失敗したという説もありますが、とにもかくにも倭国王と書かれています。
倭国王と書けば当時の漢で、「ああ、あの漢倭奴国のことだ」と連想されうるものだったのではないかとも思います。やはり朝貢は成功していたと考えます。


金印授与は朝貢の成功のシンボルとされています。
福岡の志賀島から見つかっているので奴国はこの辺りとされていて、福岡県の春日市と福岡市の南端あたりが奴国の中心地であるというのがおおむね定説になっています。
志賀島は安曇族の本拠地でもあります。
のちの世に白村江の戦いに際しては倭軍はここから半島に出発しています。
また神功皇后も半島に向かうときはここからです。
唐津から壱岐対馬を経由して半島へ行く古代人はあまりいません。魏の使節が逆に来たくらいで、倭の側は、志賀島とか糸島とか、博多湾岸地域から壱岐や沖ノ島を経由して対馬へそして半島へ向かっていました。
*志賀島
志賀島 

志賀島から博多方面を見る。中央の山と山の中央の切れ目のあたりが奴国比定地です。



場所としても素晴らしい立地の港です。
まさに福岡平野の海の玄関という感じです。
博多湾を望めば能古島と志賀島は双子の島のように見えます。
志賀島で金印が発見されたのは、いかにもそれにふさわしい場所です。

奴国 

金印偽物説について

ところで金印については発見以来偽物説がずっとありますし、近年も相当強く主張されています。
あんな小さいものが見つかるわけがない、見つかるなら九州でなくて奈良近辺のはずだ、志賀島なんて福岡近くの島でみつかったのが嘘っぽい。
こんな主張があります。
しかしそもそも志賀島というのは古代海路の最重要拠点です。

志賀島の海神神社は全国の海神の総本山ですし、そこの祝詞の言葉はまさに君が代の歌詞であり、「君が代」の君は安曇の君のことです。
その祝詞の言葉で行けばそれはもう、君というのは安曇の君のことなんです。
空想でもなくねつ造でもなくあれは安曇の君が航海から無事帰ったのを喜ぶ歌です。
今や日本国歌になっているからとても不思議なことですね。
明治政府が国家を作ろうとしたときに、志賀島の海神神社の祝詞を採用したというのですが、それはなぜなのでしょう。
いい言葉だからといって、天皇家でない者を歌った言葉を採用するのだろうか?
まあ、明治政府は薩長の田舎武士の集団でした。志は素晴らしく見事に練られてはいるが幕府のような繊細さのない人々です。まあいいかと言う乗りだったかもしれません。あるいは、皇室の元は志賀島、奴国、安曇族だったということなのかもしれせん。
→この部分単なる所見です。改めて調べてみたいと思います。

金印が偽物ではないという根拠一覧

  • 辺の長さが、後漢時代の一寸にちょど合っている。漢の時代の一寸がどれほどの長さかは、後の世に研究によってようやく判明したのですね、20世紀後半のことです。なので江戸時代以前に知ることは困難で作っても長さがあってないはずなのにこれがあっている。
  • 「漢委奴國王」の文字も、どうせ偽作するなら『後漢書』の記述に従って「委」ではなくて「倭」にしていただろう。わざわざ間違っている。偽作なのに。
  • 「王朝名+民族名+部族名+官職名」とする印文の構成は、匈奴印や叟印と一致しており、これが偶然の一致とは考えられない。江戸時代に匈奴印の内容をしることは不可能です。


金印の存在で奴国は九州福岡の南となり、それゆえ魏志倭人伝の行程は、糸島半島のあと、九州の南に来るという一連の流れが取れるのです。

このシリーズ続く

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コメント

囲炉裏端

九州の大半は狗奴国か ?

>金印の存在で奴国は九州福岡の南となり、それゆえ魏志倭人伝の行程は、糸島半島のあと、九州の南に来るという一連の流れが取れるのです。

志賀島から金印発見=後漢書「光武賜以印綬」の金印。場所は儺県の前身の奴国圏と思われる志賀島。大筋で違和感はない。が、

後漢書その直前の「倭國之極南界也」を勘案し、この奴国が「倭國之極南界」と読める。であれば、

「倭国」は博多ラインの北側となる。九州全土の大半であるその南側ラインの地帯は「倭国」でなかったことになるが・・・。

糸島伊都国との関係が整合的である博多奴国、≒儺県≒志賀島 と完璧故にと、「極南界也」を考察しなくてよいのだろうか?・・・。

作者より

Re: 九州の大半は狗奴国か ?
基本的に全体を一気に書くと本一冊くらいの量になるからこれはあくまでその日その日の雑感です。

あることを追求すると他のことが矛盾する。

これが邪馬台国の一番おもしろいところですね。

極南界は
つまり倭国=対馬海峡世界
という認識が洛陽世界にとってはオリジナルだったことを示すのではないかとも思えます。

囲炉裏端

"日替わり定食"(o^皿^)\ニパッ♪
前コメの最終行"「極南界也」を考察"は議論百出のそれぞれま論者に対する感想です。

>・・・一気に書くと本一冊くらいの量に・・・あくまでその日その日の雑感です。あることを追求すると他のことが矛盾する。
すごいペースで、しかも"日替わり定食"(o^皿^)\ニパッ♪・・・脳みその構造・回路はどうなっているのか? と驚くやら感心しています。
これらの記事を拝読に際しては、特別な主張と感じる場合を除き、その「切り口」での「試論」「検証」と解釈しています。

>つまり倭国=対馬海峡世界
奴国を博多あたりとして「極南界也」を考えると、そうなりますね。
それにしても、九州島の大半が狗奴国?は広大。敵国?が強大だからこそ
親大陸・倭王、奈良との同盟が必要だったとも・・・。
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古荘英雄

一人灯のもとで古代史を紐解き探求しています。
魏志倭人伝、日本書記、古事記をもとに考えたこと、語りあったことなど
徒然に記します。

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