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「日本古代史 卑弥呼と邪馬台国を探求する」朝鮮の日本地図と邪馬台国

朝鮮の地図

こんな地図があります。


「混一 疆理 歴代国都 之図」

こんいつ きょうりれき だいこくと のず

略称 「疆理図」(きょうりず)


意味 は「歴史上の首都一覧図」です

1402年に李氏朝鮮で作成されました。

15世紀になっても朝鮮は日本列島についてこんなイメージを持っていたということなのか?

そう思いました。

もっとも作成は朝鮮ですが、1402年の朝鮮はモンゴルから独立直後です。
1392年から1910年まで李氏朝鮮の時代ですから建国10年目の出来事です。


この地図もモンゴル帝国の技術により作成したようなのです。

モンゴル独自に技術はありません。モンゴルの技術はすなわち、イスラムと中国という当時の2大文明の先端科学のコラボです。これによって作成した地図なのです。

15世紀の末くらいまで、つまり作成後約100年はヨーロッパの地図より優れていたそうです。大航海時代からヨーロッパは世界を把握し始めたということですね。


日本列島は南に向かって伸びる島として描かれています。
すでに元寇が終わり、日本のことをモンゴル側も相当調べたはずだろうに、こんなおおざっぱな地図です。この程度のリサーチでは、元寇が成功するわけはないとさえ思います。
しかし、モンゴル自体はリサーチすることもなく、高麗や南宋の知識をそのまま踏襲したことでしょう。

半島・大陸の日本列島感

1402年にして朝鮮半島も中国大陸の文明も、日本列島をこのように南にのびるイメージでとらえたのだとしたら、魏志倭人伝の4世紀には当然同じようにとらえていたことでしょう。

つまり帯方郡から倭に向かって出発して、ずっと南下して対馬海峡も南下して、フミ国までついたら、さらにそこから南に行くという概念ですね。




緑のゾーンから赤のゾーンに南下してそのまままた南下する。それが魏志倭人伝の記述です。
でも実際には赤のゾーンあとは東に延びるのが日本列島の本当の姿です。

南投馬国に至る。水行20日。これが東と書かれたあったら、そもそも邪馬台国問題はほぼなかったでしょう。
南邪馬台国女王の都するところに至る。水行10日。陸行1月。これも東と書かれていたら同様に邪馬台国問題は確定はしなくてもベクトルは決まっていたでしょう。
15世紀になってもなお、日本は朝鮮半島の南の沖合に、南に伸びると考えていた東アジアの人々の錯誤のせいでややこしくなったのではないでしょうか。

しかしこの疆理図(きょうりず)についていえば

オリジナルはこの日本の行基図らしい。

といってもこれを朝鮮半島の南の沖合にどう配置するかは、朝鮮の日本の概念によって決まったのかもしれません。

海が苦手な朝鮮民族は対馬海峡の南に九州があるから日本列島はそのまま南に続いていくのであると考え、そのままモンゴルに報告していたかもしれません。


日本列島が東に延びている地図

0005.png 

ポルトガルの地図です。、アブラハム・オルテリウスの1595年版「世界の舞台」に載せられたものです。

朝鮮半島は島になっています。

古代からこの極東の海においては、朝鮮半島を島と捉える向きも多かったそうです。日本からも黄海の向こうの黄河河口からも海を越えて向かうところでしたから。

それは置いておいて、半島の南にちゃんと日本列島が東に向かって伸びています。

これもある意味印象が相当混ざってますね。九州が大きい。彼らにとって平戸や長崎や豊後など、九州は重要でした。確か、この地図か別の地図には、大友宗麟の居城である豊後は、豊後国として日本国とは別に表記されていました。

案外、魏志倭人伝もそんな構造だったかもしれません。

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コメント

囲炉裏端

>日本列島は南に向かって伸びる島として描かれています。

*南へ伸びる地図をベースに魏志倭人伝の国を行基図的に配置すると・・・
・伊都国などを含む女王国・・・北九州。
・南至投馬國 水行二十日・・・鞆の浦辺りだろうか。
・南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月・・・"四国高速経由で"奈良になるだろうか。
・其南有狗奴國・・・南九州?
・其餘旁國遠絶・・・そのまま其餘旁國遠絶
・女王國東渡海千餘里復有國皆倭種・・・倭種の国(出雲中心の)中国地方か?
・「参問倭地・・・周旋可五千餘里」と「自郡至女王國萬二千餘里」・・・この地図からは「?」

*で、奈良から、女王国へ 卑弥呼を派遣すると・・・作者さんの説に・・・。

*狗奴国と倭種の国が吉備を味方に同盟東征ならば、奈良他を制圧ならば、古代の薩長同盟による明治維新。


>1402年にして・・・イメージでとらえたのだとしたら、魏志倭人伝の4世紀には当然同じようにとらえていたことでしょう。
1000年間のギャップがヽ(´~`;)ウーン


>ある意味印象が相当混ざってますね。・・・は重要でした。・・・豊後は、豊後国として日本国とは別に表記・・・・案外、魏志倭人伝もそんな構造だったかも・・・
そう思います。それぞれの視点・主観、場合によっては思惑も入り込み書かれているのでしょうね。

作者より

Re: タイトルなし
ありがとうございます。
結局、半島人は海が嫌いでほとんど倭国にこない。来るときは亡命でいつく。
だから行来して情報が半島の国に正しく伝わらない。
南の彼方、からの、沖合いに対馬。さらに南に倭国。そんなイメージ。

もしかしたらソウルで今でもまちの人に聞いたら、本州は九州かの方向は?ときくと、南と答えるのではないか?
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古荘英雄

一人灯のもとで古代史を紐解き探求しています。
魏志倭人伝、日本書記、古事記をもとに考えたこと、語りあったことなど
徒然に記します。

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