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「日本古代史 卑弥呼と邪馬台国を探求する」五世紀の倭の五王の遣南朝(東晋・宋・斎・梁・陳)使

倭の五王の南朝詣では遣唐使の比ではない


歴史の本には遣唐使という言葉がありますね。


聖徳太子が送った遣隋使のあと隋から唐に変わったので遣唐使です。

白村江の戦いにこてんぱんにやられたのに敵国唐に

留学生を大量に送っていますが

航海は失敗も多く、たくさんの人が海の藻屑となりました。

300px-Kentoshi_route.png 

それというのも上図の上の黒の→である半島から黄海経由ならまず気をつけてれば大丈夫ですが

青や赤の海路は、すぐに難破してしまいます。遠洋航海術はあまりないのですね。

それに行きの大陸に向かう時はとにかく西に行けば巨大な中国大陸のどこかにはたどり着きますが

帰路においては、青と赤の海路はピンポイントで島々や、無視界航路で陸地に行かねばなりません。


630年から665年までの航路だったが、朝鮮半島情勢の変化により使用しなくなった。

1.北路  上図の黒の航路です
    • これが使えなくなったのが大きいのです遭難を繰り返したのが赤と青の南路と南島路です
    • 南路

    • 五島列島から東シナ海を横断するルート。日本近海で対馬海流を横断して西進する。
    • 702年から838年までの航路。行きはまあ大陸にたどり着くが帰りは難しい
  1. 南島路
    • 薩摩坊津鹿児島県南さつま市)より出帆し、南西諸島経由して東シナ海を横断するルート。
    • 杉山宏の検討により、存在が証明できないことが判明している。気象条件により南路から外れた場合にやむを得ずとった航路と考えられ、南路を取って漂流した結果に過ぎず採用の事実はないとする説もある
    • この南島路は阿倍仲麻呂の遭難した帰路もそうですが、
    • 大陸から戻るときに沖縄あたりに流されがちだったように思います。行きに、このルートを使う意味はないでしょうね。



しかし困難な航海だったのに10回以上行ってます。

他に14回、15回、16回、18回説があるそうです。

難破してたどり着けなかったとかも原因です。

200年間に最低でも12回。多くて20回というのが遣唐使です。

へえ!と大昔なのに海を越えて中国までとはすごいすごいと思っていたのですが

よくよく歴史を眺めると

遣唐使は二番煎じです。


下図の遣南朝使は

ダウンロード 

413年 - 478年の間に少なくとも9回は朝貢している。


65年の間に9回です。平均すると7年に一回になりますね。

遣唐使が20年に一回ペースであったことを考えると異様な頻度です。


ところで卑弥呼は魏に朝貢しました。

その後継者トヨは魏の禅譲国の晋に朝貢。

そのあと晋は蛮族に降伏して

洛陽、黄河界隈は五胡十六個時代を迎えて

ここに漢族はいわゆる中原の地を失います。そして長江流域に逃れて東の晋、東晋を樹立したのですが

半島の百済も新羅も高句麗も倭もみな蛮族の洛陽ではなく、漢族の国の都建業に向かいます。

ローマが滅んだあとは東ローマ帝国のコンスタンチノープルがヨーロッパの宗主国だったのに少し似てるかもしれません。


東晋はすぐ禅譲、その後は禅譲に次ぐ禅譲でしょっちゅう南朝の主は変わります。

東晋・宋・斎・梁・陳となっていき、陳のときに北の隋に統一されて南北分裂が終わります。


東晋の前にいた三国志時代の呉を入れて、6つの王朝がいたからこれを六朝と言って六朝文化と呼ばれていますね。


さて、南朝に行くルートはと言えば

対馬海峡を越えて半島へ行き半島を北上し、

黄海をわたって大陸へ行き、そこから建業まで南下するのでほぼ陸伝いの航海ということもあり、みな成功しています。

すごいですね。日本から今の上海あたりまで、5世紀に9回も行ってる。

遣唐使の三倍の頻度で遣唐使より圧倒的に航海も成功しているのです。


これは時代の違いとか、半島経由だから安全だったとか、のちの時代は航海が下手になったとか言われれるのですが、


実は別の勢力だったという説が根強いですね

倭の五王はヤマトの王ではなく九州の王であるという話です。


トヨの朝貢から晋滅亡までは50年くらいありますから、 
倭は大陸の情勢と無縁に朝貢をしてません。

トヨのあと、意図的に大陸と距離を置いていたのかもしれません。 
それはそれでなぜだろうと思います。 


266年のトヨの朝貢のあと、次の朝貢は413年

150年の間、大陸への派遣はなく、いきなり

突如南朝詣でが激しくなります 



下の日明貿易の海上ルートではなくて南朝もうでは朝鮮半島へ行き、

北上し、途中百済と高句麗の境目あたりから山東半島へ渡るルートだったとのことです。陸沿いだから安全だった、が、高句麗が邪魔して山東半島への渡海が思うようにいかず、南朝に文句を聞いてもらっています。



この行き来が遣唐使の海路ですから難しかったでしょう。それにしても海人族倭人としてはずいぶん、海を忘れてしまったような気がしますね。


魏志倭人伝には南方とのやり取りのことも書かれていて相当遠くの島々とも交流があったようなのですが

遣唐使の時代の倭人は海を忘れています。

あるいは白村江の戦いで、海を知っている人々はみな戦死したのでしょうか。


南朝もうでの航海路です


正確にはこれは卑弥呼がナンショウメを魏に送ったルート。

建業へは、山東半島から南下してくればいいということになります。

つまりこの海路は卑弥呼の時代から倭は知っていたのですね。


また遣唐使は様々な文物を持ち帰ったわけですが

仏教盛んな南朝の都に9回も行ったら、もろもろ文物を持ち帰ったり、 
書物など持ち帰らないだろうか? とも思います。

なんだか9回の朝貢においてまったく南朝から文化的影響を受けてないかのような 
雰囲気があります。

行っただけみたいな。 
奈良が送っていたなら仏教のことなど 
もう5世紀には熟知していて 
538年に百済から伝来を待つこともなかった 
百済もまさに南朝に行って仏教を学んでいたのですから。 

この9回の朝貢という事跡が九州王朝のものであれば 
奈良は、南朝文化を知らないということになるので整合性が取れます

どうやっても中国側の記録と

日本の近畿王朝のそれはあわないのですがそれも不思議かもしれません。


仁徳天皇も五王の一人です。


そして古事記にも日本書記にもこのはなばなしい南朝もうでのことが

まったく記載されていません。



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コメント

囲炉裏端

漢字表記の感じからのニックネームみたいな・・・

「履中」地に足をつけて国中を
なかなか良い名前だ・・・「讃」と。

「反正」正しいことには反するとは
珍妙な・・・「珍」と。

「允恭」誠でもって慎ましく治める
滞りなく成し遂げられそうな・・・「済」と。

「安康」平和で安らかな、 繁栄。
栄え興隆しそうな・・・「興」と。

「雄略」勇ましそうな
そうだ・・・「武」と。

作者より

Re: タイトルなし
倭の側が名乗ったから、それに併せて表記したのだと思います。
ではなぜそう名乗ったかというとそういう名まえだからでしょう。
漢字の諡号ではなく和風諡号でもああなはならないですよね

囲炉裏端

ポジティブ : 上から目線
全く知識がないのですが・・・

当時、日本の上層部は漢字を理解し使いこなしていたことの一つの証かもと。だから、
日本名はポジティブな漢字をあてた気ががします。(反正は、望ましくないもの返し正しく・・・の意だったかも。)

それを見で(読んで)、上から目線で以っての一文字での天皇名を表した(与えた)・・・などと。

作者より

Re: ポジティブ : 上から目線
そうですね。
ただこの長江の建業への朝貢は、かなり南朝を尊崇してのことのようでしたから。
遠くて文化があるから、攻め込まれる心配もないので百済も相当通ったらしいです
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古荘英雄

一人灯のもとで古代史を紐解き探求しています。
魏志倭人伝、日本書記、古事記をもとに考えたこと、語りあったことなど
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