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「日本古代史 卑弥呼と邪馬台国を探求する」邪馬台国の人口 経済と国防で考える邪馬台国と伊都国と不弥国の場所 再録

邪馬台国の人口 経済と国防で考える邪馬台国と伊都国と不弥国の場所 再録

現在ではまるで違う考えですが、米作の生産量から倭人伝に記載の人口は不可能ではないのかと逆に思ったりしています。


邪馬台国は筑紫平野佐賀平野にちがいありません。


下の地図を見れば、帯方郡から来たら、博多湾に上陸して平野を歩いてくると思いませんか?


そうしない人間の活動は不自然すぎる。


今でも西鉄電車・JR・高速道路はこの平野沿いに走りますよ



 米作こそが倭国に国ができた唯一の原因だと思います。そうでなければこの、日本列島、山一つ越えれば別の海岸線、別の平野、また山の中に別の盆地がある豊かな土地で国をつくる必要はない。人のものを取らなくても十分に食べていける日本の風土です。大陸のように、人の国を奪いたいという心理的な動機は発生しません。


 参考


 福岡県 …… 4,977 km2 … 15.06 億坪


 佐賀県 …… 2,440 km2 … 7.38 億坪


上の地図で、福岡・筑紫・佐賀平野  の合計面積は


約2000平方キロメートル  です。 


つまり約6億坪


計算方法:1 (平方キロメートル) =1 000 000 平方メートル(1千メートル×1千メートル)なので

2000平方キロメートル=20億平方メートル=約6億坪(1平方メートル=0.3025坪)


この6億坪でどれだけの米が作れるか。


どれだけの人口分のコメが作れるか見てましょう。


秋田県の平成17年のデータを見ますと、


一人が1年に食べるお米は約60キロg。


 計算基礎:では、私たちが1年間に食べるお米を作るにはどれくらいの広さの田んぼがあればいいのでしょうか?
1年間に食べるお米の量は61kg(平成17年度)、収量は1000平方メートル当たり約500kgですから、61kgのお米を生産するのに必要な面積は100÷500×61=122平米となります。1割余裕を見て、


40坪でしっかりと稲を育てれば1人が1年間食べていくお米がとれる計算になります。


この数字をそのまま当てはめると、建築物を今日ほど建てる必要のない当時は


そのままほぼ米作にあてることができる。


すると6億坪÷40坪(一人分の米のための田んぼ面積)=1500万人。


凄まじい数字ですね。でもこれは現代の農業技術で作った場合です。


邪馬台国は7万戸、


投馬国は5万戸、


奴国は2万戸、


その他で1万戸として15万戸。


(**ぼくはみなこれは同じ平野にあったと思ってます。通路の国ですから。この通路以外に、中津宇佐平野や田川遠賀平野があった。**)


同時代の半島の戸数あたりの家族数は6.5人。


すると福岡・筑紫・佐賀平野で100万人が居住していてもおかしくないとなる。


 もちろん現代農業と同じ生産性ではないので仮に10分の1の生産性とします。


とてつもなく低くもないのではないか。


当時は米作に人智と労働と国力のすべてをかけていたのですから。


すると150万人が食える。


全面積ではなく半分の面積を使ったと考えても75万人が食える。


戸数による計算と平野面積から逆算した推定人口が


70万人から100万人くらいで、


まあまあ整合性のある一致を見てると言えるでしょう。


 


ようするにこれだけの平野とこれだけの川が流れていたら、


これほどの量の米が作れるということ。


九州全土や西日本全土にまで邪馬台国を広げる必要はないということ。


大きな平野一つ分あればいいということ。しかも半島のすぐそばにあるのですよ。それが。


豊葦原の中津国とはよく言ったものです。半島や大陸と比べてもこれほど良質の平野はない。


逆にこういう平野でなければ数十万規模の人口は養えない。


*赤線は川



数十万人を養うこの平野が国となると


当然、この平野を外敵からどう守るかという話になります。


邪馬台国本土は八女あたり。


そこを中心に平野を守るからまず


北方の山の門のあたりに伊都国=今の太宰府を置く。


これで福岡平野とその周辺の糸島、唐津、遠賀、田川、飯塚、香椎あたりの平野から守る。


守るためにそ敵対勢力の地域をだんだん自分の勢力下に置いていく。あたかもローマ市がローマ市防衛のためにイタリア半島を、イベリア半島を、アフリカ北岸を抑えていったのと同じ理屈です。


伊都国は支配したそれらの国々との連絡や実務を行い、ここで半島や大陸との接触も行う。


あまりにも重要なので1000余戸しかないのに、わざわざ紹介する。国というよりはここは居住地ではなく公官庁街・駐屯地みたいなものか。


博多湾に何かあれば船で御笠川を下り、すぐに軍が出動できるし、筑紫平野、佐賀平野にも船で軍が応援に来れる。博多湾有明海に向けて川が流れている要衝の地です。最適な軍事・行政基地です。


 


東には不弥国


九州東岸への通路の中継基地平野への木材供給基地としての役割を持たせる。


また不弥国は熊本平野の狗奴国の背後をとることができるのでう国防上はずせません。


それに日田盆地というのは周辺への河川の元締めのような位置にあるのです。


日田盆地を取るものは九州を取るということです。


逆にここを敵に取られたら筑紫平野の背後に敵軍が駐屯し、平野の防衛は致命的打撃を受けます。


木材も入ってこない。


だから「不弥国の千余家」と戸数は少なくても重要なのです。こういう理由です。江戸時代もこんな山奥が天領だった所以です。


 江戸時代にも日田の木材は筑後川に浮かせて、どんどん筑紫平野に運ばれたとのこと。


また日田の隣には山国があり、山国川はそこから中津宇佐平野に流れる。途中に耶馬渓があります。




経済的・軍事的に、いつの時代も日田=不弥国、太宰府=伊都国は要衝の地だったわけす。


特にこの日田盆地と筑紫平野の関係の重要性についてあまり邪馬台国論議では取り上げられていない。


食料生産性=経済と


平野の守備=防衛


の二つの観点から邪馬台国を考えると


邪馬台国の中核は福岡・筑紫・佐賀平野


佐賀平野=投馬国


筑紫平野有明海側=邪馬台国


筑紫平野太宰府の南、朝倉郡=奴国


(奴国は伊都国のすぐ東南隣ですから)


それを守るために


伊都国=太宰府(上陸地点博多湾から東南に400里)


、不弥国=日田(奴国の東の境から東に100里)*倭人伝がその一部である東夷伝には国境からの距離が頻繁に登場します。方角はもっぱら首都から。距離は国境からという記述がたくさんあります。その方法で普通に読めます。


ということになり、それぞれの国は地政学的に必然性のある場所にあり、(軍事的経済的、かつ地理的に)


かつそれは倭人伝の行程記述の通りの場所にあります。


 ぼくとしてはこのパターン以外にどこでコメをつくり、どう防衛ネットワークと経済ネットワークを構築するのかと思います。




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一人灯のもとで古代史を紐解き探求しています。
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