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邪馬台国と出雲は並立していたのか

邪馬台国九州説の真相


邪馬台国九州説は多様です。
  • 福岡の糸島説
  • 福岡平野説
  • 福岡の太宰府あたり説
  • 朝倉説
  • 吉野ヶ里遺跡説
  • 熊本平野説
  • 宇佐説
  • 京都郡説
  • 大分説
  • 宮崎説
  • 高千穂説
ほぼ九州中が名乗りを上げています。
よく邪馬台国候補地では九州説が一番人気が高いといいますが
これだけばらばらだから近畿説と比較するのは不公平です。
近畿説の場合はほとんど全部奈良盆地です。プラスで伊勢遺跡説などがありますね。

さて九州説の場合はいずれの場合も
大和王権ではない勢力が邪馬台国であったとなります。

九州説の場合出雲はどうなるのか

魏志倭人伝には傍国30国が登場します。
これは近畿説であれば当時の西日本のすべてを網羅して、出雲や吉備も何かに該当するようになっています。が
これが四国説の場合はみな四国の中にあるという。
九州説の場合でもみな九州の中にあるという。

一つの考え方として、中国側の倭人レポートにおいて
九州の島についてだけ書くとか四国についてだけ書くとか
ありえないのではないか?と思うのですね。
倭人の住む日本列島の知識が
帯方郡や楽浪郡を置いてしょっちゅう倭人たちがやってきて
また自分たちも九州までは出向いてるにもかかわらず
九州のことしか知らず本国への報告も
九州のことしか書かない
なんてありえるのだろうか?
日本人が朝鮮半島の南岸に言って
つまり狗邪韓国にいってその界隈だけ知って
帯方郡のことも楽浪郡のことも知らない
なんてないのと同じように
九州とやりとりしたら
日本列島全域、少なくとも西日本のことは見聞きするだろうと
容易に想像できます。

帯方郡は纏向を知っていたか?

3世紀の日本列島内の遺跡としては
まず九州に吉野ヶ里遺跡があります
これは伊都国の近くでもあるから当然しっているし
ここは奴国の南、あるいは奴国だったかもしれません。
そして当時の日本列島にはなんといっても纏向遺跡の勢力がいます
ここには東海、伊勢、北陸、吉備、出雲、阿波、などから
人々が往来した証拠に各地の土器が発見されています
当時の日本の中心地であったことは間違いない
吉野ヶ里遺跡60ヘクタールに対して
纏向遺跡は300ヘクタールという空前の規模を誇ります

すると邪馬台国九州説の場合、帯方郡の倭人レポートが
すべて九州に限られたとき
彼らはこの日本列島最大勢力に対して全くの無知だったのでしょうか?
倭人世界が纏向を中心に統一されようとしているときに
九州だけにある邪馬台国のことだけを
レポートして奈良にあるこの都市のことは何も書かないのでしょうか?
どうもそんなことは人間の行動として
中国人の性質としてありそうにありません
辺境の倭人について関心がなかったというのも
それ以外の辺境については細かくに記録しているわけです

帯方郡は出雲を知っていたか?

出雲には妻木晩田遺跡があります
これは1世紀ごろの弥生大集落で150ヘクタールほどの広域集落です。
吉野ヶ里の3倍ちかくあります
都市的なものでも環濠集落でもないので比較はできませんが
この広さでの集落遺跡は他には発見されていません。
出雲は言わずとしれた国譲りの地です。
日本書記でも古事記でも倭国を作ったのは大国主であると
はっきり明記されています
それを譲り受けたのが天孫族で大和王権ということに
なっているとはっきりと明文化されています
そして出雲には
荒神谷遺跡などがありますね
 

けですね

地政学的に出雲というのはあきらかに先進勢力の根拠地になりますから、

その時代も特定できれば倭人伝との絡みでおもしろいですね。 
出雲は昔は明らかに表日本です 

九州北岸から出雲に至るまでは直線の海岸線が続くわけです
そしてこの海岸線で宍道湖をかかえ、ヒスイと隠岐の島の黒曜石と中国山地や安来の砂鉄を抱える出雲は大きな勢力になりうる地政学的場所です。

さらに
出雲と瀬戸内海についていえば
現代でも山陽から山陰への陸路のメインは
岡山発出雲行きの特急八雲です。
つまり岡山から出雲へのルートが一番歩きやすい山間の道だということで
つまり吉備と出雲が陸路つながるわけですが
すると瀬戸内海勢力の国々は出雲にいくのに必ず吉備を通るというようになりますね。
そしてただでさえ小豆島と讃岐と岡山平野に囲まれた地域であり
海上交通の要衝であり
それが陸上交通の要衝でもあるなら
吉備とは一大プラットフォームだったわけですが
その吉備と実は山間の道を通じて陸路つながっていたわけです・

神有月には対馬からも行ったと対馬のアマテル神社の伝承にあります。 
そしてすぐとなりには境港という内陸深くはいった天然の港があり、
弓の松原を見おろすところには、纏向に次ぐ広さの妻木晩田遺跡があります。 
そして現代の気候で言えば若狭湾は冬は寒く雪の振り方が半端でない 
鳥取も寒くカニがおいしく雪がかなり降るが若狭湾ほどではない 
そして米子あたり=妻木晩田あたりになると
かなり雪の振り方はおさまり、寒さもおちつく。 
しかし松江から西はさらに雪の振り方が緩く鳥取より寒くない 
半島、対馬、壱岐、沖ノ島、と伊都国と奴国の位置をみると、
出雲というのはこの対馬海峡世界の一部なのだとわかります。

海でつながれた古代世界。 
対馬海峡世界の中心は奴国だった。
出雲にとって筑紫と辰韓は同じような距離感だったのではないか。辰韓から出雲へは黒潮にのってすぐです。
対馬とのつながりもうべなるかなです。
そして東の一大中心地としての出雲。
この出雲を起点にさらに丹後へと広がり、
越と繋がる日本海勢力というのが生まれたのだと思います。

その点、
出雲の地理的位置はその中心となる場所に天然の恵まれた環境があったわけです。 
ここが建国の地であるというのは地政学的には当然の帰結です

するとこんな勢力がもう1世紀から2世紀には栄えてるとしたら
帯方郡が知らないわけはない。
出雲の先の丹後半島の赤坂今井古墳でも1世紀ごろのガラスの遺跡があります
これらの勢力を知らずに
九州の島の中だけを倭人世界として
レポートするだろうか?
という風に感じたりするわけです



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古荘英雄

一人灯のもとで古代史を紐解き探求しています。
魏志倭人伝、日本書記、古事記をもとに考えたこと、語りあったことなど
徒然に記します。

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