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もう一つの天孫降臨・ 隠された丹波王国 再録

以前、グーグルアースを眺めながら若狭湾は古代の海人の最重要拠点のような気がして雑感を書きましたが


丹波王国・ニニギの尊の兄弟のホアカリノミコト=ニギハヤヒノミコトの天孫降臨があった場所であるという興味深い本を読みました。


地理的必然性は現実のものだったかと思いました


伴とし子さんの「海神族の真相」


ほんとはオシホミミノミコトが天孫降臨するはずがなぜか突然子供のニニギノミコトにやらせている。


でも子供はもう一人ぽ兄さんがいてそれがホアカリノミコト=ニギハヤヒノミコトです。


そして降臨場所は冠島。



 筑紫の日向より先に、ここに天降った。上陸した。つまり、ここの方が


筑紫の日向より重要だということですね。より重要な場所により重要な人物が天降った。


それこそが、冠島への天孫降臨=上陸。若狭湾制圧作戦だったのでしょう。


ホアカリノミコトは物部氏の開祖です。


やがてこの活動は記紀で抹殺される。



神武東征に先立ち、アマテラスから十種の神宝を授かり天磐船に乗って河内国大阪府交野市)の河上の地に天降り、


その後大和国奈良県)に移ったとされている。これらは、ニニギの天孫降臨説話とは別系統の説話と考えられる。


また、有力な氏族、特に祭祀を司どる物部氏の祖神とされていること、


神武天皇より先に大和に鎮座していることが神話に明記されていることなど、


ニギハヤヒの存在には多くの重要な問題が含まれている。


大和地方に神武天皇の前に出雲系の王権が存在したことを示すとする説や、


大和地方に存在した何らかの勢力と物部氏に結びつきがあったとする説などもある。


先代旧事本紀』では、


「天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊」(あまてる くにてるひこ あまのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと)といい


アメノオシホミミの子でニニギの兄である天火明命(アメノホアカリ)と同一の神であるとしている。


新撰姓氏録』ではニギハヤヒは、天神(高天原出身、皇統ではない)、天火明命(アメノホアカリ)は天孫(天照大神の系)とし両者を別とする。


 


下はすぐそばで発掘された赤坂岩井墳墓、200年前後に作られた。卑弥呼の100年まえ。



能登半島の豊かな平野をにらみつつ出雲からまっすぐ海岸線が伸びる。そして琵琶湖まで歩いて半日くらい。


琵琶湖に行けばその制海権を取って、そうすると河内平野を北側からにらむことができるし入ることもできる。濃尾平野も近い。 


その範囲を全部勢力圏にしたのが丹波王国。河内平野もです。


 



地図で平野の広がりを見ると一目瞭然です。この範囲に向かうのは。


すると若狭湾を制する者、近畿を制する。尾張も福井も。



丹波を中心に若狭湾に上陸した先進文明の人たちは、必然的にこの地図上を進出していくでしょう。


まず琵琶湖を抑え、そうすると河内平野と濃尾平野へ行くことになります。


人間の自然の営みとして。



毎日新聞より


山がちな丹後地域がこれほどの墳丘墓を築く大首長を輩出した勢力基盤は何なのか。


これを解く手がかりは丹後の弥生後期の遺跡から出土が急増しているガラスと鉄だ。
 赤坂今井墳丘墓で検出されたガラス製品の数は、勾玉約三〇点、管玉約九〇点にのぼるという。


弥生時代の一つの棺から出土したものとしては勾玉は最多、管玉も五指にはいるであろう。


計一万余点のガラス小玉が出土した大宮町左坂墳墓群、三坂神社墳墓群、美しいライトブルーのガラス釧が副葬された岩滝町大風呂南一号墓などの事例も記憶に新しい。


後期にこれだけ多量のガラス製品が見られる地域は北部九州と丹後くらいである。
 鉄とガラスには、素材を大陸から入手し、高温状態を管理しながら製品をつくるという共通点がある。


つまり、対外交渉の太いルートと先端技術に関するノウハウが


弥生後期における丹後勢力の台頭の原動力になった可能性が高いのである。


もちろん、日本海の荒波をこえる航海術が大きな役割を果たしたことも疑いない
 その供給先を考える場合に、弥生後期の畿内地域、伊勢湾地域で製作されたと推定される巨大な銅鐸が、


ともにこの地域にもたらされていることは重要な意味を持つ。


近畿以東の集団からのこうした働きかけは、


丹後勢力の入手した大陸の鉄素材、ガラス素材が、本州島を南へ、東へと供給されたことを示唆しているからである。




丹後は古代においても尾張や近江や畿内の港だったのですね




弥生後期の丹後地域には、こうした外来物資の広域流通を取り仕切る勢力が存在していたと見るべきであろう。


赤坂今井墳丘墓の中心被葬者がこれに深く関与した可能性はきわめて高い。
 弥生時代は水稲農耕の始まった時代である。


広い平野を擁する農業生産力豊かな地域の優位性が説かれてきたし、確かにそうした地域も多い。


しかし赤坂今井墳丘墓の調査は、交易と高い技術力によって強大な地域勢力へと成長していくもう一つの社会の姿を浮き彫りにした。


いま北近畿タンゴ鉄道がのんびりと走る静かな谷あいに、かくも巨大な墳丘墓が築かれたことの意味を、弥生時代史全体の中で理解する必要を強く感じるのである。(毎日新聞 2000年10月24日)


 


いい指摘です。交易と高い技術力、航海術、先進地域とのパイプ強大な勢力を作ったという。


ではその、海人の能力とは?文明とは?簡単にまとめてみました。


1。造船技術。


  適した木材の選別。加工技術。加工のための適した鉄器の生産。設計の伝承、記録。 


2。船を操縦する技術。


   からだが一定の動作を練習し、マスターすることで脳が活性化する。


  また集団でこぐから、グループ、組織運営能力。リーダーシップが身に付く。 


3。航海に必要な知識の習得と伝達。


  潮流を読む。どのポイントで潮の流れが変わるかを認識するために、遠方の島や、土地の特徴を記憶する。毎日の満ち引きを知っている。そ れが月の状態に連動するということも当然わかるから、頭の中に暦ができる。そして星の位置で海上の場所を知る。天文の知識がある。また天気を予想する。風の方角、雲の形状など。いち早く観天望気で察知して対応しないといけないから気象の知識がある。長期航海のための保存食の作り方を知っている、淡水をどうやってためるか知っている。 


4。交易をするから土地土地の特産物に詳しい


    あそこの鉄はいいとか、あそこのヒスイはとか、あそこはコメがよくとれるとか。そして、あそこのヒスイとあそこのコメを交換するにはコメがどれくらい必要とか、わかっているので、商売としての価値や量の感覚、計算能力が身に付く。 


5。語学力。そして行った先の言葉がわかる。国内なら方言。半島に行けば別系統の言語も理解する。


6。食料としての海産物へ知識無数の魚、海藻、海などの知識がある。栄養がある。また潜ることで息をとめるので大脳生理学的に脳が活性化する。また貝は大脳の活動を活性化させる。サルが貝を食べて胎児がヒトに進化する一因になったという説もあるくらいだ。


 


このように船を作って乗ってどこかに行って、交易をするというのは人間の総合的な能力開発を促すのですね。


一か所で農民をやるよりはるかに行動する人間としては高い能力を持つに至る


ただ船に乗っていた人たちではない。船に乗る人たちというのはどういう人たちなのかということです。


 


それにしても日本海沿岸連合、日本海交易圏。



九州北岸から、出雲、若狭湾、能登、越とある。越は諏訪に近い。


その中心の若狭湾。


この世界の中心は若狭湾のような気がする。


 若狭湾は北陸道と山陰道の連結点


対馬海峡から日本海へ。下記地図で1から2へ。


平安時代には都の食を支える交易港として


御食国=みつけのくにと言われていました。


まるで月読が夜食の国を治めるというのと関連がありそうなムードが漂います。


 


 下記地図の1は日本神話の舞台です。しかし本当は2と一体として根拠地だったかもしれない。


その2の出来事は封印されている。



2の活動は本流の歴史から抹消されたのです。 


あらためて若狭湾というのはとてつもない中心地の様な気がします。


ちなみに3の活動は神話以前の話かもしれません。


 

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コメント

呆旁搖

Unknown
港から、鉄とガラスの原料、丹波の豊富な木を燃料に製品を。これを各地へ、この対価物資も各地から。
琵琶湖西岸ルート。東岸ルート。湖上ルートも。
余呉湖~賤ヶ岳・琵琶湖北岸辺りが交易拠点だったのだろうか?、

長浜市。ーー長浜市郷土学習資料ーー
葛籠尾崎湖底遺跡
「びわ湖の水深約70mの湖の底見つかったのはほとんどが土器です。土器は、縄文時代だけでなく、弥生時代、古墳時代、奈良時代、平安時代のものなど、140点近く発見されました。」
*縄文時代はともかく、弥生以降は水面下だったのでは?(調べてないのですが…)と。もしそうならば、舟と陸上との荷役作業中に湖底に沈んだもの=湖上ルートの大きさと、 想像してしまいます。

長浜市の古墳。「茶臼山古墳や古保利古墳群など多くの古墳があります。」
「古保利古墳群…賤ヶ岳から山本山に至る細長い尾根上に、約3kmにわたってほぼ一列にならぶ前方後円墳8基、前方後方墳8基、円墳79基、方墳37基の約132基で構成された古墳群。時期は、古墳時代初期から終末期に至ります。…」
*「尾根上に、約3kmにわたってほぼ一列の132基の古墳」=尋常ではない様に感じる。
戦国時代も要衝。当時も?
若狭湾・琵琶湖を、賤ヶ岳と丹波から管理していたのだろうか ?

伊勢遺跡。琵琶湖上輸送の陸揚げ地~伊勢方面へ(国道R1沿いに)、最も合理的な拠点。
(守山市「伊勢」町の地名由来は怠慢にて調べていないが…)

尾張へは米原市辺りに拠点が合理的に感じるが…。ネットで、これはと思えるものがヒットしなかった。

作者

Unknown
伊勢遺跡は琵琶湖近江が周辺の中心地であることの証左であると思います。近江を抑える人は尾張と河内を必然として抑える。

まさに信長は有利だったのですね。

呆旁搖

よく似ている
若狭で上陸し少し奥まった所に琵琶湖。その向こうには2つの大きな平野。
唐津で上陸し少し奥まった所に有明海。その向こうには2つの大きな平野。

作者

Unknown
だからこそ九州から移ったのかもしれません。もっと有明海の研究が必要でしょうね

Unknown

海部氏
籠神社の宮司の海部氏の話では、かつて海部氏は阿波忌部氏に仕えていたと話ていました。
また宮内庁の阿波忌部氏の三木氏も日本人と麻フォーラムの講演で同様の内容を語っており今でも籠神社の海部宮司と交流があり親しい間柄ですと言っていました。
真名井神社の社紋は忌部の麻紋が原形だと言っていました
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古荘英雄

一人灯のもとで古代史を紐解き探求しています。
魏志倭人伝、日本書記、古事記をもとに考えたこと、語りあったことなど
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