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白村江の戦い  九州王朝肯定風に。 邪馬台国九州説を前提に。

ちょっと九州王朝断定チックに書きました。




なぜ、白村江の戦いは、日本史上でそれほど注目を集めないのか?


一応記載されてはいるが、ぼくが不思議なのはこういうことだ。


 


当時の人口は400万人くらいという。出征兵士は28000人。


実に人口の0.7%だ。


現在の日本の人口12000万人なら80万人が兵士として出撃したことになる。


800万人が!信じられない。うそだろう。


二八〇〇〇人の重さを記述した教科書はない。


しかも対馬海峡を越えて朝鮮半島で戦ったのだ。


朝鮮半島への海上ルートは頻繁に使われ、28000人の兵士でさえも行き来することができるほど、熟知されていたということだ。


実はそれが最大の驚きだ。


出雲の発見より驚きだ。吉野ヶ里の発見より驚異だ。


朝鮮半島へ!しかも途中の交通が大変だったと特にない。驚愕の事実だ。28000人を朝鮮半島に運ぶ!!信じがたし。


       


この二つだけでも驚くのに出撃の理由がまた驚く。


百済が滅びて、遺臣たちが再興のための戦いをしているからと。


それで28000人を朝鮮半島へ?



このあたりの事実を外国人の歴史学者に伝え、何が起こったか聞くとこんな感じではないか。


「倭と百済は一つの国です。植民地ですらない。完全に一つだからもてる国力のすべてを費やしてあんな大遠征をしたのだ。あの大遠征はとてつもない。」


英仏の100年戦争のようなものか。フランスのノルマンジー公はイングランド王になった。


イングランドの王にしてフランスのノルマンディー地方の領主でもあった。



イングランド王としてはフランス王と同列、しかしノルマンディー公としてはフランス王の部下。


両方とってしまえというのがおおざっぱにいえば百年戦争のもとです。


例えばイングランドを日本列島の倭、そしてノルマンディーを任那あたりと対比すると


同じような事情があったかもなどと考えます。


しかも日本の場合は間に対馬という要衝の地があり、海洋民族がその島を拠点に九州も半島も自由に行き来したらしいからもっと一体感があったでしょう。




白村江の後は、古代、中世世界では対馬海峡を越えて遠征したことは一度もない。


まるで第二次対戦のあと日本軍が外国に一度も出兵してないの同じくらいの大きな一区切りになっているように思える。




それ以前は白村江の戦いに限らず、好太王の碑等の記録で、新羅は何度も倭人に包囲されたというし、対馬が前線基地でそこを討とうと相談したりしている。また倭の五人の王たちも新羅や百済をけん制するために安東大将軍の称号をもらったりする。




邪馬台国の3世紀が終わり、4世紀から突然半島での活動が盛んになる。これも不思議なことです。


そしてそのまま白村江の戦いまで、頻繁に半島へ派兵しているのである。


これはどういうことなのか?


あの対馬海峡をまるで琵琶湖を


わたるかのような気軽さでひょいひよい行き来しているのだ。


これらの活動は海洋民族倭人の活動だということだ。


その後の世界で日本サイドでも半島サイドでも対馬海峡をひょいひょい往復したような気配はない。




空白の4世紀は実は邪馬台国がすたれ、倭人の世界では、対馬のもともとの勢力と半島の勢力が中心になったのかもしれない。そもそも海人の彼らは九州と半島のどちらの平野でもよかったに違いない。


日本列島の史跡と記録で倭人をさぐると行きどまるのは、活動の半分以上は半島だったからかもしれない。


ところで である。


河内平野の人たちはどう考えても半島に用はない。


世界最高の日本列島という恵まれた土地にいるのだ。


この点が見逃されがちだ。


米作をしなくても、つまり穀物栽培をしなくても、どんぐり中心の食物摂取でのびのび生きられる土地だ。(日本で土器が発達したのはどんぐりを煮て食べるため)。海産物も山の幸もふんだんにあるのだ。


いざ、米を作れば川が毛細血管のようにきれいな水をたたえて流れる平野が大小取り交ぜてある。列島中にある。


瀬戸内海、日本海、琵琶湖、若狭湾、能登半島、吉備平野、四国の平野、九州の平野に豊後水道、諏訪湖、越の平野、濃尾平野。


こんな自己完結した祝福されたような土地にいるのだ。


まして時の政権が河内平野が発祥の地なら、だれが辺境の九州からさらに対馬海峡を越えて半島にいき、そればかりでなくそこから陸軍を進駐させるなど、わけのわからないことをするものか。


そんなことをやる理由を持つ勢力はただ一つ。


対馬海峡を根拠地とする、米作のための平野を必要とした一派。


出雲が豊葦原の中つ国だからと言って、米作のために大国主によこせと迫った一派。


韓地を向いた筑紫野の日向に、米作に適してるからと上陸したあの一派。


彼ら天孫族は平野出身でないからこそ人の平野を取ろうと戦を起こす。

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コメント

呆旁搖

Unknown
まさに、遠交近攻の図。
百済の地は倭との連携しか道はなかった。
倭にとって、唐支配下に半島が入ることは危険極まりない状態。
これは、幕末・明治、現代でも同じ構図。
白村江の戦いに高句麗と連携が出来なかったのか?とは考えるが、出来なかったのであろう。
しかして、敗れた対馬九州王朝たる倭は、近畿勢力下に下らざるを得なく、共に本土防衛の体制づくり。
ここに、列島統一がなされ、ヤマトでなく「日本国」宣言。国防と並行し、国土を治める体制づくり。
白村江の戦いは、本格的な統治機構を持つ国家体制=国としての「日本国」成立へと。
百済の臣・民は日本確立に多方面で有用であり、記紀編纂にも一定の役割を果たしたでしょう。

作者

高句麗
このころの年表を見ますと高句麗の使者が3回か4回も来てます。明らかに対唐防衛戦争の支援が目的だと思われます。
ガチンコでは戦いたくなかったのでしょうね。結局新羅と日本と結んだ唐が
百済と高句麗と倭を滅亡に追いやり、新羅と日本がそれぞれ半島と列島の主になったというのが九州王朝説ですね。

呆旁搖

Unknown
>「新羅と日本と結んだ唐」が「百済と高句麗と倭を滅亡に追いやり」

凄い遠交近攻の図。この方が面白いのですが、「日本国宣言」を考慮したとき、ここに「日本」が加わっていたとするべきでしょうか?

unknown

Unknown
倭国は韓と接するというのが、魏志倭人伝の記述にありました。また、朝鮮半島の南側には前方後円墳がいくつかあることが確認されています。単純に倭族の国が朝鮮半島側にあったとは言いませんが、無関係とは言えないでしょうね。九州側から後方支援はやっていたでしょうから。しかしながら、太宰府や水城、神護石山城や古代山城の分布から当時、戦をやっていたのは間違いないでしょう。もちろんこれらの遺跡の理化学的年代測定の結果が正しければですが。正直なところ、これらの施設に関する記録が少ない、あるいは全く無いというのは不自然だと思いませんか。果たして建設の当事者はいかに?

作者

倭の領域
韓伝にも馬韓?は南で倭地に接すると書かれてますね。
しかし加羅あたりを倭人が九州から進出して基地化したのではなくて。
要は倭人といのは対馬壱岐を中心にその南側の陸地(九州)と北側の陸地(半島)に住んでいた人々のことなのだと思っています。
今日の行政区分には当然関係なく。
やがて大陸の圧力で半島より列島のほうに中心がシフトしていったのだと考えています。あれらの城は白村江の戦いの後に作られているようですが、そもそもあの場所に、もともと軍団の基地が1世紀あたりから存在しており、それをもとに強固に作り直した可能性もあります。
背振はハングルでソウルと同じ意だそうですが、あの山には今でも自衛隊のレーダーがあります。雷山からは壱岐まで見えます。遠望と城の関係などまだまだ興味のつきることはありません。
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古荘英雄

一人灯のもとで古代史を紐解き探求しています。
魏志倭人伝、日本書記、古事記をもとに考えたこと、語りあったことなど
徒然に記します。

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