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トヨから倭王讃までの空白の150年

倭人伝は簡潔にして多くをかたりません


 


トヨについてもこれだけです。



更立男王國中不服更相誅殺當時殺千餘人復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王國中遂定


=あらためて、男王を立てたが、国中が服さず、お互いに殺し合った。


この時千余人が殺された。再び卑弥呼の宗女の壱与という十三歳を立てて王とし、国中はやっと治まった。






政等以檄告喩壹與壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還


=張政らは激文を発し、壱与に告諭した。


壱与は、倭の大夫率善中郎将掖邪狗ら二十人を派遣し、張政等が帰国するのを送らせた。




この2行に名前がでるだけです。


そして倭人伝は次の1行で終わるのです。


因詣臺獻上男女生口三十人貢白珠五千孔青大句珠二枚異文雜錦二十匹


=この折掖邪狗らは洛陽に行き、男女の奴隷三十人を献上し、白球を五千孔、青く大きいまがたま二枚、異文雜錦二十匹を献上した。


考えてみたらなぜこれで終わったのでしょうか。


とよの朝貢は266年のことだと言われています。


陳寿は297年になくなるのですが。



266年以降倭は西晋に使者を送らなかったことになる。


まあ中国の王朝(265年 - 316年)の西晋が滅びるまでは


まだ50年あったのになぜ来なくなったのか?


卑弥呼は239年に使者を洛陽に。


その後帯方郡から邪馬台国に使者は行き、


そして266年に後継者のトヨの使者が洛陽に行き、


割と頻繁に行き来していたことを思うと


この後倭の五王までやりとりないというのは間が空きすぎではないか。



413年  讃が東晋に朝貢します。この間なんと約150年です。


これは316年に西晋が滅んだからやむなしなのか?


滅びる前までも約50年あったわけだけど行ってない。


必要なくなった?


いや狗奴国に滅ぼされたのだ。すなわち


九州にあった邪馬台国は畿内の狗奴国=ヤマトに滅ぼされたのである


 


陳 寿(ちん じゅ、建興11年(233年) - 元康7年(297年))は、三国時代蜀漢西晋に仕えた官僚。字は承祚(しょうそ)。『三国志』の著者である。自身の伝は『晋書』にある




日本書紀』の神功紀に引用される『晋書』起居註に秦始2年(266年)に、倭の女王の使者が朝貢したとの記述がある。卑弥呼#神功皇后説にもあるように、江戸時代にはこの女王は卑弥呼と考えられていたが、卑弥呼250年までに死去してしまっていることから、近年ではこの倭国女王は台与のことであると考えられている。




引用です


http://www.bell.jp/pancho/k_diary-8/2013_06_12.htm


記事は、倭国からの遣使があったときの魏の皇帝の起居・言動を記した日記体の官撰記録(=起居注)や、


帯方太守からの定期的な報告、倭国に派遣された魏使の帰朝報告などがベースになっているはずだ。


晋は、司馬炎が魏最後の元帝から禅譲を受けて建国した王朝である。


武力で前王朝を滅ぼして建国したわけではない。


魏の王城だった洛陽城をそのまま引き継いで王都としたため、


魏の時代の文献は王宮に無傷のまま残っていた。


陳寿はこれらの史料を王宮の図書室で自由に閲覧できたにちがいない。


完成時期は284年にほぼ確定できる。この場合、「魏志倭人伝」の成立も284年ということになる。

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コメント

unknown

Unknown
参考までにとは思いますが、新撰姓氏録にある松野連姫氏の家系を見てください。卑弥呼や委与、倭の五王らのものと思われる人達の名前が見受けられますよ。古代天皇家の家系と倭王家の家系には対応が取れないのは、全く別系統の人達だからだと正直なところ思いますね。あくまでも参考ですが。

作者

Unknown
ありがとうございます。
海部氏の家系図とか九州王朝説とかも面白いですよね

呆旁搖

Unknown
フリーハンドで解釈をと、大掴みに
「熊襲反乱・朝鮮への出兵・倭の五王・磐井の乱・孝謙天皇の宇佐神宮ご神託」を、一連の流れとして
九州勢iが記述したらとの立脚で、、
考えをめぐらしてみましたが、無謀な試みでした。
九州各地勢力図?の重要性を感じました。

作者

Unknown
九州は都市国家的勢力図で畿内とか日本海が領域的な勢力図なのかと最近思っています

呆旁搖

Unknown
>九州は都市国家的勢力図
言われて。
その様にイメージは、が、認識していなかった。
納得です。

作者

Unknown
キキなどを見ていくと、どうも九州で収まりきれない国々が、倭ですが、邪馬台国が倭全体の支配者とはどこにも書いてないし、倭が、列島のどこまでかも書いてない

呆旁搖

Unknown
伝の記述。
邪馬台国についての直接の記述は
「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮、可七萬餘戸」のみ。
邪馬台国の様子は推測or憶測。
例えば戸数。高密度or広面積のいずれによるよるものか? 食糧キャパの問題は当然ある。

「女王国」の文言はあちらこちらに見られるが、
邪馬台国それ自体を指している場合も、或いは邪馬台国を含む女王国連合を指している場合もあるように感じる。
 


作者

Unknown
それは面白いですね。おまけに最初に帯方郡からの道のりの説明のとこは

郡より倭へ至るには


と倭と書いてますね。
そこの最初のとこは女王国でも邪馬台国でもなく倭と。

これがもし厳密に区別されて使われていたら、また面白い話です

神墓学者

Unknown
論評にも値しないですね。
ネットに生息するへんな生き物
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古荘英雄

一人灯のもとで古代史を紐解き探求しています。
魏志倭人伝、日本書記、古事記をもとに考えたこと、語りあったことなど
徒然に記します。

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