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倭国大乱と環濠集落

唐子鍵遺跡は3つの環濠集落を最後はひとつの巨大な環濠集落に統合しましたが、


やがて環濠はなくなり連合政権のようなマキムク遺跡が近隣に登場します。


またその100年ほど前には琵琶湖の東南に環濠のない伊勢遺跡が登場しています。



このように環濠集落は部族ごとの集落で、


環濠のないものはそれらの勢力が合同でつくる祭儀都市や集会都市のように思えます。


それはいわゆる倭国大乱を終わらせる装置であったのかもしれません。


倭国大乱の間は環濠集落が栄えていたのではないかと思えます。


そうすると卑弥呼は環濠集落に住むわけはないので


、少なくとも吉野ヶ里は卑弥呼居住地ではないと思えてくるのです。


 


環濠集落は稲作文化と同時に大陸から伝来し、列島東部へ波及したと考えられている。


しかし、2世紀後半から3世紀初頭には、弥生時代の集落を特徴付ける環濠が各地で消滅していく。


これこそ卑弥呼による倭国和平の時期ですから符合が合いますね


この時期に、西日本から東海関東にかけて政治的状況が大きく変わったことを示すものとして考えられている。


この時代の環濠集落は、沖積地の微高地に立地する低地型と台地・丘陵などの高所に立地する高地型がある。低地型は水濠で、高地型は空壕で囲まれている。



今のところ、


弥生時代でもっとも古い環濠集落は、


北部九州の玄界灘沿岸部に位置する福岡県粕屋町江辻遺跡


弥生時代早期のものが見つかっている。




さて環濠集落の消滅とともに邪馬台国がはじまっているともいえるのですね。


そうすると畿内と九州はこの時期同じ政治の動きの中で考えるべきかとも思えて来ます。



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コメント

unknown

Unknown
少し気になりました。
環濠集落があることは戦争があることの前提のはず。魏志倭人伝によると、卑弥呼の住まいは深い堀で囲まれ、周囲を兵士が厳重に警備していたそうです。彼女が共立されるまでに内乱が起きていますまた、彼女の死後、男王が立つも内政が上手くいかず、再び内乱が起きたことが記されています。そして委与が共立されたとなっています。本当に卑弥呼の時代に環濠集落が衰退したのでしょうか?早くも不要の産物となったのでしょうか。

作者

Unknown
なるほど。たしかに。
じつは環濠集落は戦いのためだけのものではないという説もありますね。

ただ、あらゆる地域で一斉に環濠が消えることはないので、伊勢遺跡や纏向には環濠がない、そんな巨大都市が突如できた、これは倭国大乱の一応の集結の証なのではないかということですね。

また纏向や伊勢と倭国大乱、卑弥呼を連動して考えるのは近畿説が前提ですが、自分は筑紫平野説なので、まあ、このあたり、思考の実験のような部分もあります。

呆旁搖

Unknown
>環濠集落は戦いのためだけのものではないという説。

かもしれない or 違うかもしれない。
環濠集落の他、次の集落は時の流れのなかで、どうだったのでしょうか?。そりぞれの事情や小さいことから、解明度は低いかと思いますが。
高地性集落。
平野部の近くの高台(山地)の集落--記事で触れられている見張り台集落。など

これらとは別の観点ですが、室戸岬-安芸市-海陽町の△の辺りに、集落が有ったのでしょうか?。とりわけ、室戸岬に高地性集落が有ったならば、太平洋航路の燈台機能とも考えられるのでは、と漠然と思っています。

倭国ではあっても、近畿・纏向の世界は卑弥呼で論じられている世界とは別の世界と感じています。

作者

Unknown
岡山、吉備にも高地性集落が。みはりと防衛と縄文海進のためでしょうか。
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古荘英雄

一人灯のもとで古代史を紐解き探求しています。
魏志倭人伝、日本書記、古事記をもとに考えたこと、語りあったことなど
徒然に記します。

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Author:古荘英雄
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