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なぜ九州に巨大遺跡は見つからないか?

しばらく伊勢遺跡や唐子遺跡、マキムク遺跡といった畿内の大型遺跡について考えて見ました。


これらの遺跡に比べて九州は発見済みでいけば吉野ヶ里がいいとこで、


3世紀の日本の中心は畿内にあったと考えるほうが大いに部がありそうです。


おまけにマキムクには周辺地域の越や出雲までも土器が出土するのに九州のものは出ない。


 


さびれた九州。


こうなりそうです。


出雲の荒神谷遺跡のような出土でもない限り九州邪馬台国は部が悪くなっていますね。


なんといっても畿内の1世紀kら3世紀の遺跡はきらびやかです。圧倒的です。


 



さてしかし九州と畿内の間に吉備があります。


すべての謎は吉備で解けるのかもしれません。


吉備を中心に考えると、


出雲は山向こう、


畿内は瀬戸内海の東端、


九州宇佐のあたりが瀬戸内海の西の端。



こう見ると吉備というのは瀬戸内海交易圏の最大勢力になる立地だし、


讃岐、播磨、淡路の海域を小豆島も含めて関所のように押さえていた。


だから瀬戸内海交易をする人たちは吹き溜まりのように吉備に居座る。


日向の人も瀬戸内海まではすぐです。


伊予海峡をこえればもう瀬戸内海。


しかもそこにたどり着く前から東に四国が見えてきます


そう考えると日向と畿内は実はそれほど離れていない。


日向⇒四国が見えてくる海域⇒伊予海峡⇒瀬戸内海⇒吉備⇒畿内


という連続性の中で、心理的距離感は驚くほど短かったのではないか。


そうなるとこの宇佐というのは明らかに吉備世界において九州の入り口ですから、


ここはもともと交易都市があったのかもしれません。


ここに上陸したら日田へ陸路行き、筑紫平野に筑後川にのって下れます。


またここを拠点に関門海峡を越えて宗像や志賀島とも交易をしたように思います。


その先は半島とつながるので、実に宇佐というのは瀬戸内海交易圏にとっては九州の入り口であり、


筑紫平野交易の中継点であり、半島との接点でもあります。


九州と半島の全部の中継交易の場所に見えるのです。


神武東征時にも宇佐にきて遠賀あたりに行き、


そして周防、吉備と入って畿内入りです。


この東征ルートはあたかも九州交易圏がみな吉備に集まって


やがて当時、尾張が開発中だったマキムクにはいったということではないかとさえ思えます。


さてそうなると吉備の遺跡は?


まあ何と言っても大型の前方後円墳はここが一番ですから。


邪馬台国吉備説もあっておかしくない立地です。


 


さて九州の遺跡はなぜ見つからないか。


私見ですが最大の古代交易都市は宇佐神宮の真下にあるのではないか?


だからそこは掘るわけには行かないから、九州のマキムククラスの遺跡は発掘されることはない。


またもうひとつの筑紫の古代都市は大宰府政庁跡の地下か、大宰府天満宮の真下。


だからこれも掘られることはない。


とくに宇佐なんて南日向からの交易。


北、遠賀、博多湾からの交易、陸路日田から熊本、筑紫の交易が集中する巨大な交易センターの可能性があります。


海からの地政学的位置で考えるとそうなのではないかと思えるのですね。



さらにひっくり返して拡大してみますと



大宰府と宇佐からは伊勢遺跡や荒神谷クラスの発見があってもおかしくないかもしれません。


荒神谷がみつかるまで出雲は単なる神話の里に過ぎませんでした。


九州に巨大遺跡が見つかりマキムクに匹敵するものがでるとした


宇佐と太宰府の両方です。


いつの日か世紀の大発見を楽しみにしています。

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コメント

呆旁搖

Unknown
>とくに宇佐なんて南日向からの交易。
北、遠賀、博多湾からの交易、陸路日田から熊本、筑紫の交易が集中する巨大な交易センターの可能性があります。
海からの地政学的位置で考えるとそうなのではないかと思えるのですね。

賛成です。
宇佐 中心としても国東半島辺りは…。
吉備は今一つ、相当な興隆があっても-- 現代の名古屋--途中通過駅になり易い感じはします。

作者

瀬戸内海
瀬戸内海と日本海に両方渡来人がやってきてもいた。そしてその縄張り争いの集約地が畿内であった。というのもありか。日本海対瀬戸内海こそ倭国大乱か。しかし吉備の前方後円墳の多さはあなどれないし、淡路島で区切られる文化の境目。吉備はじつは信長時代の尾張か。結局、信長秀吉家康と尾張が続いたから江戸の大名のほぼ全部は尾張人でした。同様のことが古代でも。

呆旁搖

信長の播磨、古代尾張の吉備
>愛知県、韓国京畿道「友好交流・相互協力」の関係 は
当時の尾張にはないだろうから、当初の窓口は専ら若狭。吉備海路が開け河内も。尾張と河内が交易関係に。吉備は更に、奈良も。
裏日本海路は苦境に、中日本交易路か。
関東・中部・東北の西日本通路は尾張に始まる地勢。ますます、中日本交易路は興隆。若狭は琵琶湖南岸域になびかざるを得ない状況。出雲は兵糧攻めにあった状態。こんな図式が国譲りにも影響したのではないだろうかと妄想。

作者

Unknown
出雲、丹後、越は一体ではないか。
そしてこのルートは琵琶湖、近江、尾張へのルート。そしてこのルートが河内へ出ようとしたときに、吉備とバックの九州が奈良へせめていったのかもしれません。
奈良から瀬戸内海制海権まで取られたら九州瀬戸内海ゾーンは完敗ですから。

呆旁搖

Unknown
東日本への陸の大動脈の出発点である尾張は結構強かった様に思う。
若狭・越は海の他、平野で尾張・河内と繋がっている。
出雲は海と山越えで吉備。若狭から見たとき出雲と一体でなければならない理由がないように思う。
河内からは若狭か吉備かいずれかとは交流がなければならないと思う。
吉備は九州・河内の両者うまくやらなければならない。吉備勢は難しい立場だったと思う。
奈良にヤマト王権ができたストーリ、纏向に尾張産遺物、をどの様に考えるか

遺跡・記紀を考慮せずの妄想もそれなりに楽しい。

生き残るためにいろいろな行動をしたことは間違いないでしょう。
>吉備とバックの九州が奈良へせめていったのかも。  神武東征でしょうか。
>河内へ出ようとした ときに。  考えられること、と言うより最も普通に考えられることかと。
>出雲、丹後、越は一体ではないか。
出雲の立場からは必要なこと、他の日本海勢力も出雲をのける積極的な理由もないから、一体でも不思議はないとも思う。
この直後に尾張が若狭に替えて、奈良・河内との交流を強めていったのではないでしょうか。

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古荘英雄

一人灯のもとで古代史を紐解き探求しています。
魏志倭人伝、日本書記、古事記をもとに考えたこと、語りあったことなど
徒然に記します。

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