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銅鐸体勢と伊勢遺跡

http://www.bell.jp/pancho/travel/oumi/ise%20iseki.htm


「弥生後期の紀元1世紀末頃に突如出現し、邪馬台国の女王・卑弥呼とほぼ同時代の2世紀末に最も栄え、そして大和地方に巨大な古墳が築かれる古墳時代前期になると急速に衰えてしまう。」





こんな建物が2世紀に、邪馬台国の100年前、纏向の100年前に出現します。


この円のなかには



こんな楼閣があります。


そしてこれらの建築物は伊勢神宮、出雲へも大きな影響を与えているのです。


この近江の国。


ここを中心につまり琵琶湖を中心にして丹後。河内。尾張へも向かう。



この勢力は前方後方墳の勢力だとも思われます。



こうなるとほぼ関東・越から西側すべてですから、ヤマトの前に実はもう統一交易圏ができていたということですね。


いわゆる銅鐸国家です。



この銅鐸は纏向遺跡からは一切出てきません。


つまり流れ的には纏向にいた勢力=初期ヤマト王権が、近江勢力を滅ぼしたのです。


そしてじつはこの円周上の建物は各地の豪族の宿舎でしょう。



そうするとこここそが神有月に神々が集まる場所だったかもしれません。


そして出雲は聖なる場所か何かで別にあって・・・・・


最後に伊勢遺跡の勢力が銅鐸を自ら埋めるために聖地に行き、埋めたのである


というような空想もできますね。空想ですけども。


纏向は3世紀。伊勢は2世紀。纏向の勃興と前方後円墳の拡大とともに、伊勢勢力はいなくなるのですね。


いってみれば纏向遺跡は降って沸いたようにあそこにできたのではなく


勢遺跡の技術がすでにあちことに拡散していて、


ういう技術的な積み重ねの上にできたとも考えられるわけです。


そうするとこの伊勢も纏向も、地元の集落の拡大版ではなく、


周辺の大きな豪族たちが共同で作った都市と想定できます。


















































搬入土器の出身地割合
伊勢・東海系49%R30.pngR10.pngR05.pngR03.pngR01.png
北陸・山陰系17%B10.pngB05.pngB01.pngB01.png
河内系10%Y10.png
吉備系7%G05.pngG01.pngG01.png
近江系5%G05.png
関東系5%G05.png
播磨系3%G03.png
西部瀬戸内海系3%G03.png
紀伊系1%G01.png

纏向にはこのような広範囲な勢力が集まってました。伊勢も同様だったのだと考えているわけです。


銅鐸と前方後方墳の世界です。



の物部神社の広がりはちょうど伊勢遺跡の範囲ですね。


伊勢遺跡勢力の銅鐸勢力の中心が物部氏である!


そしてそれはニギハヤヒである!


そのあと、吉備と九州の連合がヤマトに入る。


物部は手打ちした。


だがその勢力の重鎮の伊勢尾張は戦った。


これがナガスネひこ。


ニギハヤヒは徹底抗戦を主張する伊勢尾張の長を殺した。


そして神武たちと和平を。


そして降伏条件として銅鐸を埋めた。


銅鐸はかれらの統合のシンボルでしょう。


そして彼らは出雲の地にまとめて埋めた。祈りながら。


出雲はかれらの文明が半島か大陸から来た時の上陸地点、聖地です。


そして出雲に巨大建築物をたてて(これはまさに伊勢遺跡の工法です)銅鐸を祀るとした。


この一連の動きが国譲りと神武東征であった。


 


こういうストーリーでも考えることができます。ぼくはですけどね。


そして出雲とは出雲のみならず


そこから丹後、近江、伊勢尾張と続く広域勢力の総称だったということですね。

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コメント

神墓学者

統一
統一、でなければ一体化。これはじつは紀元100年くらいだったかもしれませんね。
伊勢尾張から吉備、越、出雲、丹後、近江、奈良、九州。
57年の金印はじつは九州ではなくすでに西日本の一体化した交易勢力のなせる技か。

呆旁搖

地形から空想
奴国の時代の、本州の中心は琵琶湖南東岸圏に有ったのだろうか。やや縄文の色が強い濃尾圏と大陸の窓口の若狭圏との関係は特に強かった様に感じる。
瀬戸内・河内圏の重要性が強かったとしても、地形から見たときの中心は京都辺りか。纏向が中心になるためには政治的な力が必要だった様に感じる。それが何だったのか?。天孫の存在だったのか?。

作者

奈良の大遺跡たち
纏向のすぐそばに唐子遺跡があって0年くらいから2世紀すぎくらいまで。伊勢遺跡くらいが3つ並びやがて一つに統合。
唐子遺跡は銅鐸生産センターでした。やはり銅鐸による一体化した倭が、伊勢尾張から越、関東あたりまであって、さらに丹後出雲あたりまであったのでしょう。
その勢力にニギハヤヒや神武が向かい、その勢力全体を国譲りで前方後円墳体勢に変えたのですね。どうやら。だから統一ではなくてやはり国ゆずり。

さてそのとき九州は?どんな役割?どんな時代だった?おそらくは筑紫へいやは無関係に邪馬台国でした。と思います。

呆旁搖

Unknown
>銅鐸による一体化した倭が、伊勢尾張から越、関東あたりまであって、さらに丹後出雲あたりまであったのでしょう。

ここが1つの文化圏。
他に東北、瀬戸内、九州などの文化圏。
文化の北上ルート。①日本海。②太平洋。③瀬戸内海。
瀬戸内海ルートに、2つの渦潮海峡を抜けるルートが確立された結果、東海地方と瀬戸内勢の接近ルートが出来た。これに対抗すべく、出雲・若狭勢と近江~京都勢とが連携強化。(九州勢がどちらのルートに乗るか?、当初日本海ルートだったが、瀬戸内ルートを主流に)
この巴状の文化の流れの眼にあたる奈良に文化の中心が形成された。それも比較的短期間、平和理の出来事だった様だから、相互発展などで話し合い、その結果、奈良が中心の適地と…。

こんなのは、いかがでしょうか。妄想が巴状に渦巻いてますが。

作者

Unknown
こうした出来事だけ見ていくと倭国大乱のあとの連合政権は伊勢遺跡だったり、マキムク遺跡だったりで邪馬台国は奈良ということになります。
しかしそれは違うと肌感覚で思うのです。これらの地域と九州の関係ですね。ニギハヤヒも神武も瀬戸内海からならへ上陸したわけです。

呆旁搖

続きです
"巴状の文化の流れ"などと複雑に妄想せずとも…。もう少し普通に妄想してみました。
瀬戸内海勢と尾張勢が、伊賀越えで、交流。その過程で、やや未開だった奈良に尾張勢が順次住み付き、やがて一定の勢力圏に。他の地域からもパラパラと(出雲・九州からも)。
交流はあるものの、別の文化圏=九州勢= >「ニギハヤヒも神武も瀬戸内海からならへ上陸」。これを近江勢、他勢力も天孫勢とし認めた。これがプレ大和王権へ、のストーリ。

作者

Unknown
関裕二さんはまさにそう言ってました。尾張がつくった纏向。その証拠に、これはいつでも尾張方面に逃げることができる。そこへ吉備がやってきたのだと。つまりニギハヤヒです。そのキビは瀬戸内海交易で九州からの人間がかなり住み着いていた。やがてそこに神武が九州から。さてナガスネひこはニギハヤヒは受け入れたのに、なぜ神武を拒んで戦までしたか?というのがあります。

呆旁搖

Unknown
>関裕二さんはまさにそう…。
妄想も100出せば、1つくらいはまともに近いものが出るのですね。

調子に乗って。
ナガスネひこは、出雲経由で来た奴国由来のニギハヤヒをたてて勢力拡大をと。そこへ、瀬戸内海、正面から神武が…。ドンパチへ。
などと。

作者

関裕二によると
尾張代表ナガスネヒコが尾張伊勢のつくったマキムクにいた。そこへこの地域の重要性をよく知ってる吉備があとから参加してきた。なので宥和的に両者は共同運営。
しかし神武はさらにあとから吉備より西から来た。
この話は尾張伊勢の勢力が吉備に裏切られたということです。吉備は神武に乗り換えたということですね。伊勢尾張は切られた。

呆旁搖

Unknown
尾張代表トヨトミがオオサカにいた。
関ヶ原で中国/吉川は裏切って、徳川に乗り換えた。
 同じような事があったのですね。
更に、250年後、中国/長州に三河徳川は切られた。

九州・中国が日本の歴史を変換しているのでしょうか?。

作者

Unknown
本とですね。中国と尾張。
織田、豊臣、徳川と続いたことで江戸期の大名の8割がたは尾張人。譜代と親藩は尾張ですからね。
なので日本中の文化が尾張色に染められたのでした。以外と知られていない事実。
尾張はついに神武以来のうらみをはらして、中国と九州に、吉備と熊襲にまた追いやれたました。

尾張、海部、物部

Unknown
安房、伊勢は阿波忌部の開拓地域。
吉備、出雲は植民地。

阿波忌部と物部は同属。

古事記では尾張氏の祖を凡直としているが粟凡直と凡直は同属であり粟凡直は忌部の宗家。


阿波風土記曰く、天富命は、忌部太玉命の孫にして十代崇神天皇第二王子なり、
 母は伊香色謎命にして大麻綜杵命娘なり、大麻綜杵命(おおへつき)と呼びにくき故、麻植津賀(おえづか)、麻植塚と称するならんと云う」

また
「阿波風土記に曰く、大麻綜杵命の母は伊香色謎命なり按するに大麻綜杵命は阿波忌部族なるべし」
とあり、物部は忌部であることは間違いございません。
お妃の名も「高屋阿波良姫」と、すっごく意味深ですね。

はっきり言ってみれば、物部の系図の中、「大麻綜杵命」「伊加賀色許賣命」「伊香色雄命」は「忌部氏」なのです。
無論、その当時「忌部」と言っていたかどうかは別の話ですけどね。

阿波に日本で唯一「大麻綜杵命」を祭る神社があり物部の祖神「伊加賀色許賣命」「伊香色雄命」を祀る式内社伊加々志神社が現存し、「大麻綜杵命」から転じた「麻植津賀(おえづか)」「麻植塚」の地名、また「伊加々志」という、そのままの地名が残っているという事実。

また忌部氏の支配地域であった千葉県に鹿嶋、香取神宮が存在し鹿嶋神宮の摂社に天太玉と天日鷲が祀られ、伊香色雄が建てたとされる石上神宮には忌部神である大宮能売が祀られています。

延喜式に 阿波國麻殖郡 伊加加志神社とあるが麻植郡は忌部の本拠地中の本拠地である。
なぜ、物部の神社が忌部の本拠地にあるのか?
答えは簡単、物部は忌部だからです。

崇神天皇七年、物部連の祖・伊香色雄命が勅を奉じて
布都御魂大神と布留御魂大神を石上の高庭に遷し祀り、石上神宮と称した。

出雲玉作遺跡の全域において、徳島県の吉野川南岸で産出される「結晶片岩(青石)」や「紅簾片岩」が大量に出土している「阿波」の「高越山」や「佐那河内」地域から搬ばれ出雲での勾玉製作は阿波忌部が出雲忌部を従えて玉作りを指導していたと考えられます。
特に旧麻植郡忌部山型石室を持つ古墳群の被葬者は出雲に青石を搬出し玉作りを指導した阿波忌部族の技術者であったと考察出来ます。
なぜなら三角縁神獣鏡が出土した雲南市の神原神社古墳と形状が酷似しておりしかも、その石室内には当時、阿波の若杉山遺跡しか確認されていない水銀朱が大量に使用されています。
神原神社古墳の北の雲南市加茂町岩倉からは大量の銅鐸が出土していますが、徳島県旧麻植郡川島町の「川島銅鐸」と「11号銅鐸」が兄弟銅鐸で、斐川町神庭の「荒神谷遺跡」の「3号銅鐸」と伝美馬市「脇町銅鐸」が兄弟銅鐸と判明しています。
遺跡の面から検証しても出雲玉造と阿波忌部の関係は密接なものであると考えられます。

高麻山周辺の遺跡群について「出雲国風土記」の「大原郡」条には、「高麻山~古老の伝へていへらく、神須佐能猿尊の御子、青幡佐久佐日子命、是の山の上に麻蒔き殖ほしたまひき。故、高麻山といふ。即ち、此の山の峯に坐せるのは、其の御魂なり。」とあります。

この高麻山の周辺には神原神社古墳があり、30mの積石方墳で、竪穴式石室をもち、朱が使われており、石室内には、景初3年銘(239年)の三角縁神獣鏡1面が出土している。
その「神原神社古墳」と同様の構造を示す竪穴式石室は、徳島県三好郡東みよし町加茂の式内社 加茂神社の真上、加茂山の丹田古墳に見られる。

この高麻山の住所が島根県雲南市加茂町となり地名は一致する。
「麻」に「積石の石室」、「加茂」という地名、そして「朱」・・・「阿波忌部」に関連されるものばかりです。

「出雲国風土記」の初めに、「八雲立出雲国者狭布能稚国在哉」と述べられている通り、狭布能国と呼ばれる根国(死の国)があったのがわかります。

狭布能稚国は狭布能根国と相対され述べられた国名で、狭布能国によって新しく開かれた殖民地という意味なのです。

この狭布能国云々は、阿波風土記の伝承を知る者以外なんのことかも分からないと思います。

この狭布能という地名は今でも徳島県名東郡佐那河内村に存在します。そこを流れる嵯峨川には出雲で大量に発掘される青石と同一のものなのです。


すなわちこれらのことから、出雲はすでに忌部の支配地域であったことはあきらかである。


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古荘英雄

一人灯のもとで古代史を紐解き探求しています。
魏志倭人伝、日本書記、古事記をもとに考えたこと、語りあったことなど
徒然に記します。

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Author:古荘英雄
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