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「日本古代史 卑弥呼と邪馬台国を探求する」前方後方墳と倭国大乱

前方後円墳と倭国大乱


ウィキペディア


概要[編集]


主に弥生時代後期末から前方後方墳の祖形である前方後方形墳丘墓が造られ始め古墳時代前期前半に東日本(東海・関東地方)で前方後方墳が多く造られた。100メートルを超える規模の大きな前方後方墳5基が大和に集中し、あとは下野に2基、上野・越中・美濃・駿河に1基ずつ存在する。


日本列島には約500基の前方後方墳が存在する。


弥生前方後方形墳丘墓[編集]


愛知県一宮市西上免遺跡で発見された前方後方形墳丘墓は墳丘長約40メートルもある。


前方後方形墳丘墓から前方後方墳への成立に濃尾平野が重要な役割を果たしたと考えられている。3世紀前半の弥生時代終末期頃、東海地方では方形墓の周壕が一周するものや方形の一辺に突出状の祭壇を設ける墓が流行した。そしてやがてその際壇部や陸橋部が発展し前方後方形が出現する。 その例としては愛知県の廻間SZ01墳丘墓があげられ、祖形と考えられる。この墳形は西は京都府から東は千葉県までひろがった。 つまり前方後方墳は伊勢湾沿岸で誕生し各地にもたらされたと考えられる。


こんな形です。



前方後円墳より100年以上早い。一世代前ですが全国規模。



違いは東の端が北関東で東北にはない。


これは伊勢尾張の交易相手がここまでだったのだと思います。


S字状土器の分布と一致するのですね。だいたいにおいて。



また九州にもちょっとしかない。前方後円墳は宮崎県にも大量にあります。


これも伊勢尾張の交易の範囲ということではないか。


さて近江尾張連合というような考え方があります。


琵琶湖から尾張と伊勢の伊勢湾・渥美湾沿岸部は一体化していたというものです。


であれば丹後に上陸したホアカリノミコトたちは、琵琶湖につきさえすれば、一気に尾張まで行けるわけですね。


このコースあまり歩きません。


琵琶湖までの20キロと、琵琶湖から濃尾平野のかわまでの20キロくらいであとは船で移動できます。



さてヤマト王権の全国展開の前にこのようにほぼ全国展開する勢力があったことは間違いないということでしょうか。


支配ということではなく交易ということと思いますが、


これは出雲の神在月にも関連するかもしれません。尾張が広めたといっても最大のこの古墳は出雲にあります。


すると前方後方墳は出雲丹後越の日本海勢力と、近江尾張の伊勢湾勢力の連合の証かもしれませんね。




ここまでくるとこの連合の枠組みの変化こそ倭国大乱だと思えてきます。


それは瀬戸内海貿易にも進出しょうとした尾張が山の向こう、峠ごえで纒向に町をつくり、そこに吉備が参加したという構図です。こうなると日本海は浮くわけですね。すべて吉備尾張連合で事足りる。そして北部九州はどちらにつくか?


やがて出雲も越も丹後も纒向に参加したことは土器からわかっています。


纒向に参加した国々のパワーバランスこそが倭国大乱ですね


すると収束のためには祭を行う巫女を纒向におく必要があったということで、あるいはその神子が日向から来たのかもしれません。


そして神子に反対の長臑彦は尾張の人で、賛成のニギハヤヒは吉備の人で、


神武は神子として纒向に鎮座して、吉備はそれを助けた。尾張は反対し、吉備に殺され排除された。




なので卑弥呼は別物です。纒向の卑弥呼役は神武。


九州の勢力とは無関係の話です。




このストーリーは神話に直結しますね。


これからです。



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コメント

神墓学者

畿内=邪馬台国?
これを読むとすでに二世紀には、ヤマトを中心にした地域は全国に交易ゾーンをもっていたから、伊都国は近江の商売の出先機関でもおかしくないですか?大倭という商売機関がありましたね。列島の一体化はいわゆる大和王権より100年から200年は早かったということですね?そうすると邪馬台国畿内説というのはそうなんじゃないかと思えてきますね。展開を楽しみにしています。

呆旁搖

接点に何か意味が?
>琵琶湖から尾張と伊勢の伊勢湾・渥美湾沿岸部は一体化。
信長もその侵攻をみると、その様に感じていたのでしょうか。

琵琶湖南岸域と大阪神戸辺りは平坦で障害物は無く、一体であってもよさそうだが、S字状土器の分布図の外。(関ヶ原、やはり天下分け目、宿命の地だったのか?)
地図にある瀬戸内海文化圏が強力だったのだろうか。

奈良・京都辺りが、2つの文化圏の接点の様にみえるが、何か意味があるのだろうか?。

作者

Unknown
河内は昔は海とか潟ですね。奈良盆地は実質海岸線上の平野ではないか。するとはたしなく福岡平野と環境的に似てますね。
さてだからまず尾張伊勢が近江とともに発展し、その後、伊勢尾張が東から纒向に進出してその基盤をつくって、あとから吉備が参加して、ここに列島中心部となる交易拠点を作った。琵琶湖から大阪までは川でそのままですから行き来は激しかったのではないか。ただ伊勢尾張へ行った方の勢力が中心だっということか。

呆旁搖

Unknown
なるほど。東から伊勢尾張。次いで西から吉備。
後発域=移植民を受け入れる余地大。
ここへ、日本海を経て=北から、北九州勢(奴国の一部=甘木朝倉をイメージ)が、(東征でなく単に)地名と共に入植したのでは、との見方は如何なものでしょうか?。

作者

Unknown
不思議なことに九州から土器がないのと、九州から、何かが移ってきたという痕跡が纒向にはないようです。そしてすでに伊勢遺跡時代に畿内から九州へ逆に物流が。
そうすると、もっとずっと早い時期、紀元前2世紀のまさに伊勢遺跡こそが奴国関連かもしれない。あるいは、神武こそ地名を畿内に持ち込んだ当人かもしれない。
それと吉備のオリジナルは九州という話も。瀬戸内海に進出した奴国は吉備の地で反映したのちに畿内へ。その場合は吉備に九州の地名があるのだろうか?となりますが。

呆旁搖

Unknown
私の直前コメの疑問は"伊勢遺跡"の記事に解がありました。ありがとうございます。
>「九州から土器がないのと九州から、何かが移ってきたという痕跡が纒向にはないようです。」
納得です。

S字状土器の分布図からの空想。
諏訪住民が →
①北関東→関東→静岡→[東海]
②伊那谷→美濃→[東海]
③[東海]→近江・越
だと"縄文のなごりか"と面白い…。が、土器からは全く縄文を連想させない。
残念。   でも代わりに、

地図では伊勢湾・濃尾・琵琶湖東岸に集中している様に見えますが。ここに一大文化圏があったことは間違いないのでしょう。で、ここは「何だったのか」で議論百出ですね。

魏からは倭の後ろ、隔絶域。魏志で特段の注目は不要だった様に感じる。

作者

東方の海上1000里
邪馬台国は九州に違いない。
周防が1000里先の陸地。そしてその先の本州すべて倭人伝の倭種の住む地です。それだけです。どこにも日本列島の最大勢力が倭王だなどとは書かれてない。倭とは対馬海峡国家。纏向は纏向です。
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古荘英雄

一人灯のもとで古代史を紐解き探求しています。
魏志倭人伝、日本書記、古事記をもとに考えたこと、語りあったことなど
徒然に記します。

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