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糸島から背振も大宰府も伊都国だった

神功皇后の遠征時に、タブラ津姫などの筑紫勢力はみずからの根拠地で戦っている。


しかし考えてみて欲しい。


白村江の戦いのあとヤマト朝廷は太宰府を列島防衛の基地にして周囲に大野城、水城を築いた。


つまり博多湾方面の敵に対しては、太宰府という狭隘の地は防衛ラインとして最適なのである。



上の地図、博多湾からインド大陸のように逆三角形になっていて頂点に太宰府があります。その括れを超えると広大な筑紫平野佐賀平野が広がり、


筑後川が有明海に向かって流れ有明海は南のほうとつながります。



筑紫平野の勢力が防衛戦争をしようと思ったら、筑紫平野という広がりで大決戦をするより、太宰府の狭間で正規軍がのびのびになったところを防ぎつつ、地元の利を活かして、両方の山からゲリラ戦的な奇襲をしかける。これが本道ではないか。


信長の桶狭間の戦いは、まずは狭間で戦ったということが大事なのです。


筑紫平野界隈で狭間になっているのはここ太宰府の地だけ。


防衛ラインとしては次のようになっている。


 


太宰府以南の国は、北からの敵とは、太宰府の地で防ぐのが当たり前だろうと思う。


逆に狭間をとられると、敵はそこに兵を集中し、大群となって筑紫平野に溢れかえるわけである。


下は神功皇后の遠征図。(他の方のブログから借用、ごめんなさい)



ごく普通に太宰府を通り過ぎるわけですね。


これっておかしいよなあとか思いました。ここでこそ最後の戦いをするんじゃないのかと。


ということで、実は太宰府の地にあった伊都国がすでに神功皇后側についてたことを考えると、そこをフリーでパスできたということですね。


伊都国がどちらにつくか、それが重要なファクターだったのでは?などと考えています。 


伊都国は糸島が有力で実は今はそう考えてますが・・・・


 


しかしたとえば糸島から背振の山全部が伊都国だったかもしれないと思うようにもなりました。背振をとられたら、山から筑紫平野と佐賀平野に駆け下りてきたらそれで終わりです。


背振はとられてはいけない山で伊都国の裏手です。じつは伊都国は背振をもっていてしたがって大宰府のあたりもその延長で伊都国だったのではないか?


軍事的にはそうあるべきでありましょう。


あるいは大宰府がもともと伊都国でやがて西に移動したとか。


 


 

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コメント

murasawatakehiko

Unknown
豪雨被害の折り不謹慎ながら、今日の様な最高の快晴だと、脊振山頂からどこまでも見渡せそうですね(重ねて不謹慎ですが)。

作者

Unknown
やはり遠景写真を見るたびに、古代国家と山という関係を考えます。
とくに九州のこのゾーン、山々から周囲の広大なゾーンが陸も有明海の遥か南も壱岐から対馬方面も見えるわけです。
「視覚の古代史」という文化人類学の研究があってもいいのではと思いますね。困難な研究だけどとても面白そうです。

Unknown

Unknown
太宰府ってまだ海(川)だったんじゃないかと、自分は思っています◎
海に近いかんじ
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古荘英雄

一人灯のもとで古代史を紐解き探求しています。
魏志倭人伝、日本書記、古事記をもとに考えたこと、語りあったことなど
徒然に記します。

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Author:古荘英雄
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