FC2ブログ

帯方郡からの報告書 3

帯方郡は年にどれくらいの頻度で報告書を洛陽に送っていたのでしょうか?


洛陽をはじめいわゆる中原の地の人々は、楽浪郡や帯方郡は世界の果てであったでしょう。東夷伝の東の果ては、あの記述の流れで行くと韓伝で終わりでいいような気がします。


そしてその韓に位置する帯方郡が韓の海の向こうの国すなわち倭を知った。


もちろん57年には漢が金印を渡した国ではありますが。



こんな苦労して洛陽に行ったのは、狗奴国との戦争に支援をお願いしたいからです。


この地図で奈良に邪馬台国があったとしたら、その瞬間伊都国までの地域を支配していたことになります。そうしたらこんなに苦労して洛陽に行くほどの敵とはなんでしょうか。尾張とか関東でしょうか。国の存亡にかかわるから必死になって洛陽に使者を向かわせた。


 


そんな大国はもうヤマトしかない。邪馬台国は九州勢力。そして狗奴国は奈良の大和王権です。



洛陽は遠い。


洛陽は文明の粋をこらした都市。


洛陽は倭人からみたら夢のような場所であったでしょう。


 


しかしやがて永嘉の乱で洛陽は陥落するのです。そのこと自体、倭人には衝撃的だったでしょう。

スポンサーリンク

コメント

非公開コメント

古荘英雄

一人灯のもとで古代史を紐解き探求しています。
魏志倭人伝、日本書記、古事記をもとに考えたこと、語りあったことなど
徒然に記します。

スポンサードリンク

プロフィール

古荘英雄

Author:古荘英雄
一人灯のもとで古代史を紐解き探求しています。
魏志倭人伝、日本書記、古事記をもとに考えたこと、語りあったことなど
徒然に記します。

ブログ村ランキング参加中

ブログ村古代史ランキング参加中

PVランキング参加中

ブロとも申請フォーム

検索フォーム

QRコード

QR