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「日本古代史 卑弥呼と邪馬台国を探求する」倭人伝の上陸地点についての雑感

邪馬台国の場所探しはなぜ混乱したか


というタイトルのある学者の方の主張です。 


 

「魏志倭人伝に記された行程をそのままたどれば、邪馬台国は九州島のはるか南の海の中となる。あり得ない場所である。
このことは、この地理像がどれだけ不正確かを物語る。

最後の行程、陸行1月以外はすべて船

魏志倭人伝によると邪馬台国へは、狗邪韓國から、対馬と壱岐を経由して末盧国に至り次いで伊都国に至る。
朝鮮半島から対馬、壱岐を経由し壱岐の対岸にある松浦半島に上陸するのである。

なんで松浦半島の上陸すると言い切るのだろうか。壱岐から1千里というのを完全に無視して、

その距離が間違いだとする


問題は末盧国から伊都国への行程を陸行とすることである。
一般的に壱岐から九州島を目指せば、松浦半島の北端呼子あたりに上陸する事になる。

どこの国の誰の一般論だろうか?

壱岐から周知の九州島を目指せば巨大な陸地を見ながら天然の良港博多湾を目指す。

玄界灘から見る九州の陸影は大陸のように巨大です。

この人は船に乗ったことがあるのだろうか?と思ってしまう。


ここから伊都国すなわ現在の前原市あたりに、船で向かうのに何の問題もない。

何を言ってるのだろうか。

唐津湾から前原あたりまでそうであるなら、唐津湾で上陸せずに直接壱岐から船でそこまで行くさ。

この人は船に乗ったことがあるのだろうか


その後、長い航海が続くことを考えれば、この区間を船を降りて陸行する理由は何もない。

何を言ってるのだろうか?だったら唐津湾で上陸する訳を言ってほしい。

この意見を集約すれば、長く航海する人たちは

壱岐からそのまま博多湾に行くはずであるとなるではないか。

これに気づかないのだろうか。

そして上陸地点の末ろ国が博多湾となり、古代の半島大陸への出発点である志賀島に気づく。

そして志賀島は山がせり出しているのだ。




 



倭国を訪れた人が描いた地理像ではない

それでは魏志倭人伝は、なぜこのような誤りを犯しているのであろうか。
魏志倭人伝の情報源は、240年頃倭国を訪れた魏の使者による報告書あるいは紀行紀であろう。
その報告書または紀行紀を読んだ後代の人が、その地理像を描いているのである
そのために相当見当違いの誤りを犯している

 

そう言ってしまえばもう何をどうにでも解釈できる。

フリーハンドを得ましたね。



ほとんどの学者は自分の学説に合わせてここは倭人伝が間違っているというのですよ。

壱岐から1000里も末ろ国から陸行東南に500里も、そこから東南に100里もすべて方角も距離も違うと言っている。



彼らのセンスが考古学の標準ならトロイア遺跡は永遠に発見できなかったろう。

そしてトロイアがホメロスが書いた通り見つかったのなら聖書に書いてる通りにと見つかったのが

メソポタミア文明ではないか。



あの出来事を覚えていないのか?

海で暮らしたこともない人たちが頓珍漢な船乗りの心理解説や、古代船の航路を適当に

断定していいのだろうか。

海人の勢力である倭の船について、北が上の地図を眺めて、半島、対馬、壱岐、九州が一直線に並んだようにみえるからと、まっすぐ来ると思うのは浅はかすぎる。向こうの陸地にむかって一直線に進むのは川を超える渡し舟だけですよ。

ふつう目的地までそのまま船で行きます。

青函連絡船の港が下北半島の先端と函館半島の先端にあったのではなく

青森と函館という拠点にあったことからも、港の場所は用事のある場所ですね。



博多湾と唐津湾の湾の状況、上陸地点の平野や河川の状況など見ないのだろうか。学者バカ?。現代的な経済的、軍事的観点からみて、唐津湾に上陸するわけはない。

とにかく九州島という巨大な陸地が目の前にあればそれをにらみながら最適な立地まで行くに決まっているのである。



一般的に唐津湾に上陸するなど言ってほしくない。では大和朝廷の船はなぜ志賀島から半島に行ってたのだ?唐津湾ではないのか?。

古代人の心のかけらもわかってない。

だから近畿説になるのだな。






 

水行陸行以外は方角も距離もなんの問題もなく有明海沿岸の筑後平野にたどり着くのに、そして登場する国々の地政学的位置も完璧なのに、なぜめちゃくちゃな場所に比定して、その理由は倭人伝が相当見当違いの誤りを犯している、である。

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コメント

神墓学者

有明海
有明海沿岸。古代はもっと海岸線はせまっていたとか。
だから邪馬台国の遺跡が見つからないのでは。普通に考えるより山間部にあったのではないか。
それにしても有明海沿岸地域は広いですよね

KATS.I

繋留地
同感です。伊都國は福岡平野と思います。でも末盧國から伊都國まで陸行するのです。
何故陸行したのか。末盧國→伊都國を陸したほうが、博多湾→那珂川もしく御笠遡上→伊都國より早かったからと思います。魏国の船を繋留するのに適したのが末盧國だったのでしょう。

少佐

Unknown
志賀島という港はどうなのでしょう。白村江のときにはここから半島へ。神宮皇后もここから半島へ。
志賀島は古代から外海への港です。
帯方郡から出発すれば志賀島まで大型船で来て上、そこから小船で香椎浜へ上陸し、そこから歩くというのが一番合理的な行動だと思いますが。
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古荘英雄

一人灯のもとで古代史を紐解き探求しています。
魏志倭人伝、日本書記、古事記をもとに考えたこと、語りあったことなど
徒然に記します。

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