もう一度考えたくてアップしました
おおざっぱですが日本中に古墳はあります。しかし前方後円墳の発祥の地は纒向です。
古墳はこれに加えて壱岐や対馬や半島南部にもあります。
また沖ノ島
沖ノ島は島そのものが古墳です。海の正倉院と言われています。
前方後円墳は3世紀半ば過ぎから作られ始めたといいます。3世紀半ばといえば卑弥呼がなくなりトヨが晋に朝貢したのが266年だからちょうど
その頃です。
これまでは北部九州の平野、福岡平野、筑紫平野、佐賀平野を食料生産地として周囲の背振山系、壱岐や対馬の島々を含んだものが邪馬台国であると考えている関係でもっぱら北部九州をGoogleアースでいじって遊んできましたが。
纒向地帯を考えてみたいと思います。すなわち奈良盆地ですね。
でもね。ここに邪馬台国の都がるということは九州の糸島の伊都国に一大率をおいてたというから、ということは邪馬台国連合は西日本すべてをほぼ支配していたということになるから、それはどうかなと思います。その広域を、緩やかな交易連合ではなく、一大卒をおいての武力をもとにした支配として統一していたのならば当然そこに遠路をやりとりする膨大な文書があったはずです。指示書にしてもそうだし、伊都国はつまりのちの大宰府と全く同じということになるから、そこにもそれなりの巨大遺跡がないとおかしい。
奈良から九州を支配するのですから、それは大変なことです。
どうも3世紀にそんなことは無理だと思うのですが。
といってたら何も始まらないので。
纒向遺跡は有力古墳群のど真ん中にあります。卑弥呼の墓といわれる箸墓古墳なんてすぐです。それもあって卑弥呼の墓となるのでしょうか。
藤原宮に匹敵する巨大な遺跡で、多賀城跡よりも大規模である[4]。また、都市計画がなされていた痕跡と考えられる遺構が随所で確認されている。
これより大規模だと。本当ですかという感じですね。
イメージ図です。
日本全国で作られたと見なされる遺物が出土しているが、
中でも大和国に隣接し、古代から交流が盛んで関係が深かった伊勢国で造られた物と、
伊勢湾を挟んで東側に位置する尾張国で造られた物が多い。(吉備の手法も多いそうです)
また、搬入品のほか、ヤマトで製作されたものの各地の特色を持つとされる土器が多く、祭祀関連遺構ではその比率が高くなる(多い地点では出土土器全体の3割を占める)。また、これら外来系の土器・遺物は九州から関東にかけて、および日本海側を含み、それ以前の外来系遺物に比べてきわめて広範囲であり、弥生時代以前にはみられない規模の広汎な地域交流があったことを物語っている
ここまでくるとやはり邪馬台国かと思えますが。
逆に ここまでくると邪馬台国ではなく、併存していたプレ大和朝廷=狗奴国ではないかと思えます。
それは出雲が黒曜石の門前町として交易センターであったように、全国交易センターであったのではないか。
この出雲の役割を譲り受けたのです。
纒向は各地の勢力のちょうど真ん中あたりですから
出雲から国譲りして中心が移ったような気がするのです。だから邪馬台国とするのは。・・・・・・・
関東?出土品からは仲良さそう。
纒向クラスが九州で出たら決着でしょうね。
でも邪馬台国が日本列島全部の最大勢力とは書かれてないけど。
ぼくは大和王権=、纒向は狗奴国だと思うのだけどなあ。
あるいは出雲=越=諏訪=投馬国がつくった人口的な新首都です。
古荘英雄
一人灯のもとで古代史を紐解き探求しています。
魏志倭人伝、日本書記、古事記をもとに考えたこと、語りあったことなど
徒然に記します。
コメント
神墓学者
ここは墓ではないようだから国家プロジェクト組んでやるべきと思います。古墳と違って盗掘も当然ないし。
これからとてつもないものがでますよ、きっと。
一つの都市の遺跡ですからね。遺跡としての巨大さを日本人は認識してない。
2015/03/25 URL 編集
天地無我
>「…がつくった人口的な新首都」
この地にプレ大和朝廷を築いた力は何だったでしょうか。
天下布武的なものではなかった様な感じがします。
中途半端な求心力では成し得なかった。
いずれにしても、天孫の威光を活用したか、と思うのですが。
仕掛け人(参謀)は速日命(物部氏あたりか)。神話に類似ストーリに近いのでは。出雲・吉備など諸々の大勢力は主役でなかった様に感じます。これらの大勢力がまとまり奈良の地に中心地を…。
やはり、仲介人と天孫が不可欠の様に感じます。
2015/03/25 URL 編集
天地無我
吉備は袋の口を押えられ従わざるを得ない。吉備の鉄も交易の必需品。
奈良に入植されれば吉備に挟まれた河内も抵抗できない。
次に、たぶん受け身の地であった伊勢・尾張=コメの生産地・物品の消費地を攻略。四国ライン~伊勢道の開通。
京都~若狭攻略・懐柔。
孤立した出雲は国譲り。
吉備が奈良勢力側となった後は、東海勢力の攻略で王手。攻略とは言っても、天孫威光の活用と利害による説得で、力攻め一本やりではなかったと思う。
2015/03/25 URL 編集
作者
実は東大阪市に3年住んでたことがあり、
阪奈道路を超えてよく奈良に行ってました。そして当時の西名阪、東名阪を乗り継ぎ伊勢志摩にも。
奈良を超えて伊勢湾に出た時の美しさは忘れません。
あの界隈と九州北岸はにてると言えば似てますが、伊勢や尾張の勢力はきっと若狭湾からやってきた天孫と思います。
尾張と瀬戸内海の中間の奈良にはやはりもともとは若狭湾の人たちでしょう。アメノホアカリノミコト。饒速日=物部の開祖です。
饒速日は若狭湾の冠島に天孫降臨しています。
この若狭湾勢力は当然越や出雲となにかの絡みがでてくるでしょうから、
なにかと奥深くなりそうです。
2015/03/25 URL 編集
天地無我
東征されていますね。
後、名古屋辺りは?。
この地も交通の要。
静岡・関東へ。諏訪へ。飛騨へ。若狭湾へ。大阪・"奈良"へ。いずれも1本道の直行便。海も有る。大河の集まる地でもある。
余り重要視されない感じですが、奈良建都に、直接・間接的に関わりがあった様に思います。
2015/03/25 URL 編集
天地無我
もし、若狭(地盤を残し)を経て奈良へ。
天孫は瀬戸内海を経て奈良へ。
2つの勢力が結びつけば、そして越と尾張を分断。これで、出雲・越・尾張は封じ込められたかたち。関東も。
大した戦いもなく、即、大和王朝か?。
2015/03/25 URL 編集
作者
出雲も大和も越と深い関係。始原は越。そして諏訪の縄文、港と平野としての越。
尾張はまさにほあかりの命の本山。そして纒向には駿河の土器もあるというから、尾張、駿河貿易ですね。
織田=今川の世界です。地理的にいつもそうなるのでしょうね。
ちなみに名古屋には友人の結婚式で一度だけ下車しただけでした。
2015/03/26 URL 編集
天地無我
逆も真。
正・逆併せれば"ALL"。
みんな集まり車座。 「どうしょう?」。「奈良は?」。「そうだ、纏向。そして、統一の王に天孫を天皇として」。「明日から(飛鳥)実行だ」。 みたいな。
全ての勢力圏を巻き込んだ大戦乱の末は無かった感じ。
無血建国"飛鳥維新"大和王朝か。
一夜にして、狐狸の都が人間の都に…。
そうさせた外圧か、何か有ったのでしょうか?。
天孫がこの地に入植を知った、諸勢力が自発的に集まったのでしょうか?。
物部氏辺りの演出兼監督だったでしょうか?。
魏晋南北朝時代、江南の六朝時代、華北の五胡十六国時代。大陸の不安定な世相からの影響があったのでしょうか?。
2015/03/26 URL 編集
少佐
こんな幕末のような危機意識がひょっとしたらあったかも。
すると、坂本龍馬が薩長同盟作ったりしたように、出雲=投馬同盟だとか。幕府=出雲に、朝廷=邪馬台国が大政奉還を迫ったとか。考えたら大政奉還って国譲りですね。
諸国が連合して瀬戸内海の一番奥に共同の最終防衛都市を築いた。
そうとも考えられるか。
晋の滅亡。中華帝国が蛮族によって滅ぶのを初めて見たのではないか?
それより前は漢族同志ですね、基本的には。
夏 イン 周 秦(異民族だが一応中華秩序の内側) 漢 三国で魏 そして晋だから、中華秩序でないとこで晋がほろんだことは、実は想像を絶するほどの大事件だったのではないか。
2015/03/26 URL 編集
天地無我
"倭"が"輪"になって"話"し合って「大」きな「和」を為した国だった様です。
外国の脅威から、海という堀に守られてきた日本。今までは。
空・宇宙から一瞬で、一発で。
今こそ、世界に「和」が必要です。
2015/03/27 URL 編集
神墓学者
キリスト教世界は実は多神教です。神のもとではありますが、各地がじぶんとこの聖人をまっつてる。サンマルコとかサンピエトロとか。神社みたいなもんてす。各地の聖人は氏神みたいなもんです。だからカトリックはおおようで、懐深い。そしてそのあとのルターの方が原理主義です。イスラムも昔は酒を飲んで、詩をつくり、オマルハイヤームは李白みたいですが。
本気で一神教で融通効かないのはユダヤ教徒だけかも。たからきらんわれる。
でも危機があると原理主義にキリスト教もイスラム教も日本もなります。日本版原理主義。尊皇攘夷てす。イスラム過激派。ふかーいとこで似てるかも。
2015/03/27 URL 編集
天地無我
2015/03/27 URL 編集
シャーリング伯
古代史夜話みたいなとこが楽しい。
この地図は実におもろい。
2016/09/24 URL 編集