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纒向遺跡は東インド会社

邪馬台国の都はともかくとしてその版図はこうです


 


 


そしてこれは半島の文物の人が直接くるというたいへんな強みを持っている


一方周辺にはそれなりの国がたくさんあります。


辰韓、馬韓(卑弥呼時代に帯方郡に滅ぼされる)


そして出雲、吉備、纒向交易センター 隼人族


纒向というのはあるいは東インド会社ではないのか?


 


関東、尾張、伊勢、駿河など太平洋側の大国、


巨大な越という日本海側、


それらとの交易の一元管理のための場所。



 


てんでばらばらにやっていた交易を全国のどこか一か所に集約してやればとても楽になるではないか。


するがと日向の交易など不可能に近かったのが簡単になるし、吉備と出雲だけだったのが、さらに拡大する。


この原型は隠岐の島の黒曜石をもとにした出雲の神あり月交易だったと思います。


 


国譲りとは、来年から交易の集まりは出雲ではなく纒向にする。それでいいですね。


ということだったような気がします。


出雲はおそらく数百年にわたって隠岐の島の黒曜石をもとに黒曜石門前町となり、そこに諏訪が姫川を下り越経由で参加したりしなかったり、(諏訪の神は神あり月免除されてました)


対馬の神も行くし、全国的に出雲に行ってた。これは大物産、物々交換大会、黒曜石本位制の経済の祭典だったのでは。


 


それをこれからは纒向でやります。


という経済改革、そこにあった権力や祭器の中心もずれるからようするに交易センターがかわることでの禅譲革命だったのですね、きっと。


各国はそのあとは出雲に行く代わりに纒向に行くのです。出雲の纒向に行くようになるということ。


だから統一戦争はない。大国主の婚姻政策で列島は一つ。


そのあとを継いだのですね。きっと。


 


 


なんかこの赤がそのまま列島内における邪馬台国のような気もします。


つまり吉備か出雲が邪馬台国が作った東インド会社。


当時の雰囲気で言えば南姫川あるいは東出雲会社。


 


東インド会社だから居住集落が見つかってないというではありませんか。


藤原京より広くて居住地がない。


これは貿易センターだから。きっと宿泊施設がこれから見つかるのですよ。



出雲から国譲であたらしい交易センター纒向になりました。その証拠は


ということで全国に前方後円墳が作られた。


 


さて邪馬台国はこれとは無縁に列島の富よりも半島の富をバックにずっと存続した。


そう考えるほうが自然です。


 


この巨大な交易圏が邪馬台国ならば、狗奴国とは誰だ?だれがこんな巨大な勢力と長期にわたりあえるのだ?


それに奈良の人々が入れ墨して海に潜るのか?


どこからどう考えても九州北岸のことしか書いてない


 


こんなプレ大和王権が邪馬台国ならいまさら狗奴国との闘いのために親魏倭王など不要です。



 


この500キロの距離を超えて軍団を駐屯させて、旧北岸を支配。そしてならからの中間点も支配していたということですが。


そんなのありかなあ。

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コメント

天地無我

比較地政学
東インド会社。賛成です。
政治的に。まず、"管理"会社(伊都国)が同時設立、そして、やがてここへ政治中枢が…。日本の重心が完全移行。か?。

日本の主軸が中央構造線沿いに変わった。
たぶん、太平洋航路、紀伊半島周回~関東も開けたのでは。南九州~四国太平洋航路も。

ここに至り、淡路島。プレ大和王権の最重要と認識される。この島に特殊性が有るのならば、この事情に起因するのでは。

(九州大宰府辺りに中枢の場合の志賀島・能古島・糸島。→淡路島・阿波。
九州の3島と比較できない程の重要地。となれば、当然、四国全体も)

神墓学者

Unknown
いくらなんでも東インド会社的なことは無理では?
でも居住区あとがないというのは人工的ですね。

うーん。邪馬台国東遷もありか。でもそしたら邪馬台国の九州建国は1世紀ですよ。

そうか奴国が1世紀。2世紀は大乱。3世紀は卑弥呼体制でかつ奈良への進出。そしてトヨはなら。

わかった。やはり何の関係もない。物部も蘇我もみな奈良の話。

やたら九州と関連づけるから複雑になる。

奈良は狗奴国の話。
倭人伝は九州邪馬台国の話。

以上

天智無我さんへ

Unknown
http://ameblo.jp/teras0118/entry-12007574214.html" rel="nofollow" target=_blank>http://ameblo.jp/teras0118/entry-12007574214.html

以前投稿してくれた もう一人のテラさんが
投馬国についてシリーズで書いてます。
面白いです。

作者

Unknown
ちなみにそこの辻冬馬って僕のことです

天地無我

ありがとうございました
ありがとうございます。

もう一人のテラさんの投馬国論。吟味拝読は後日にと。取り敢えず速読にて。
狗奴国までは発表当日にほぼ拝読させていただいてました。
"投馬⑧の帰路"でのお名前。前に、読者紹介欄で拝見し、気が付いていました。"投馬"に拘りを持たれてもいいのでは?などと思ったものでした。

本格的に研究された論文である為か、全くの怠け者の私には難しいもの、が本音です。そのような中でも、いくつかは、着想の盲点発掘や斬新発想に気づかされ、この点などには素晴らしいと未熟者なりに感心致します。

私は"末盧国~伊都国の"通説、伊都国=糸島への疑問がスタートでした。が、「ここは異論がないから」と糸島を伊都国として、論理展開(対馬海峡渡海では通常は考察しない細部まで検討されているが)をスタートされている。伊都国=糸島は、私が拝見していないだけで、どこかで考察されていると思うのですが…。
もし、ここにズレが出れば、以降の展開が大きく変わるので、慎重に精読・勉強させていただくつもりです。

ありがとうございました。


作者

Unknown
そうでしたか。
もともとおくも糸島が伊都国ではなく大宰府が伊都国と思ったものでした。グーグルアースで博多湾から東南に500里行くと大宰府だったので。

ほんとに邪馬台国は面白いですね。
なんだか、宝島さがし。

証拠や痕跡はあるが、それそのものはうすぼんやりとした霧の中。
でも確実に魏使はきているところがまた面白い

天地無我

ますます禿げそうです
安曇族に関連して私見を再検討中ですが、やはり考えを覆すには至っていない現状です。

「東南陸行五百里、伊都国」。
"船で行くより陸行が合理的で津が有るところ。且つ港(末盧国)から東南五百里。そして、奴国・不弥国と整合する場所"で相変わらず探しています。大乱後の100年程の瞬間の姿をたまたま魏史が記した、との見方から遺跡には特段の注目を払ってはいません。

もう一人のテラさんの記事。
投馬国。前記事の記憶が薄れていましたから関連をと、もう一度、最初から"女王国への道~奴国と女王国(19)"まで、やや注意しながら拝読させていたたきました。
さすが、研究者を自認されているだけに私には難度が高すぎます。

疑問というか難しすぎるというのか、何カ所かあります。うまく表現できないのですが。

1つは、やはり「東南陸行五百里の伊都国」がなぜ、前原辺りかです。

女王国…②において「国の中心部がどこにあるのかを記すときに、いい加減な方角を書くような歴史家が本当に存在するものでしょうか。」
女王国…④において、「陳寿は「西北」の「西」の一字を省略して「北」の一字としたまで」など
方角にもしっかり考察されている。
「東南陸行五百里の伊都国」から戻って末盧国は何処なのか?

もし、その道中に糸島半島を通るならば比定されている斯馬国の記載が何等かあるはず。(半島先端は少佐様も上陸候補地の1つに、私も賛意を。また、私も今は斯馬国を糸島に比定しています。)
唐津辺りからならば方角をどう考えたらよいか。
女王国…⑪において「ポイント4:水行・渡海・度海・船行」なども厳密に考察されている。実際は唐津から水行したから、方角視認がずれたとも考えられない。

もう1つはやはり私の拘りあるところに関連するのですが、
女王国…⑪において「ポイント2:国間距離の有無」…「ともに国間距離の里数がないのですから、その前に登場している不弥国とこれら二つの国(邪馬台国と投馬国)は(不弥国)と接しているということになります。」を
「最終目的地に着いたところで"前記述の国との関係=理里がないから接している"でなく、"ただ文脈が変わっただけ"との解釈もできるのではないでしょうか?(と言うより、私は文脈が変わったと解釈したいのが本音です。)

まずは、理解を深めるため、解らない点を、「感銘・成程」などは投馬国を読破した後にと思っています。

それにしても、凄い方がいらっしゃるものですね。とても消化出来そうにも有りませんが、狗奴国・投馬国にも挑戦してみます。
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古荘英雄

一人灯のもとで古代史を紐解き探求しています。
魏志倭人伝、日本書記、古事記をもとに考えたこと、語りあったことなど
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