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幻の「呉史倭人伝 2」親呉倭王の金印はどこだ?

三国志においては3つの国それぞれが天子です。皇帝です。


魏が馴染みでのちに統一したから魏が正統というイメージがありますが、


三国志の真っただ中では3人の天子が並立していたのです。


 


したがって金印は魏の特許ではなくて当然呉も発行できるわけです。


「呉 金印」の画像検索結果「呉 金印」の画像検索結果


 


222年というのは、それまでに対して称臣していた孫権が黄武と言う新しい元号を使い始め、魏からの独立を宣言した年である。正式には呉の建国としては孫権が皇帝に即位した229年を採る場合もある。




日本はちっぽけな島国ではありません。中国の中原の地にこの広さが行けば大国です。


そして、この海上生活圏、海上活動圏というもので考えると、倭人の活動領域は


中国三国志において4国志といえるほど強烈な存在感があります。



意外なほど、呉に近い。魏より呉に近い


魏のほうは出先の帯方郡から距離を測りますが


呉のほうは健業という首都からでも黒潮にのってそのまま到着する。


この航路はジャポニカ米や長江文明の影響から古代からあったと思われます。


すると、魏は焦るわけです。


漢委奴国王のころから存在している倭人たちの国が帯方郡の南、対馬海峡をこえたところに広がり


呉に近いらしい。


帯方郡までわずか10000里くらい。


狗邪韓国から帯方郡は陸続きで7000里。半島内陸コースならば5000里くらいしかない。


そんな国が呉と同盟して、半島を北進してきたら挟撃されてしまう。


こちらの側につけなければ。


ということで親魏倭王は、魏にとってお守りで発行したということですね。一つの考え方として。


呉倭連合は魏にとって脅威でしょうから。


だからこそ卑弥呼の要請に応じて倭の国力と立地を検察に行ったのだと。


そして、北東に伸びる島であり、


呉との間は750キロほどの絶海が広がるから


脅威にはならないと判断した。


沖縄諸島はあるがそこをつたって日常的に交わりはあまりない。


まして呉がその島々を北上して倭に来て、


半島に行くなど大変過ぎて現実にはない。


さて安心したところで呉へのブラフがはじまる。


「呉 三国志」の画像検索結果


まさに呉の沖合に大国邪馬台国が存在するのだと。


このレポートは呉への情報戦。帯方郡が倭地に行って調査の結果、邪馬台国という倭の女王の本拠地は


呉の沖合すぐだと。その国は親魏倭王としたから、呉は魏と倭に挟撃される状況になったぞと。


もちろん呉のほうが倭のことを詳しくは知っていたでしょう。しかし呉にしてもメルカトル図法の地図をもっていた


わけではなく


そんなに日常的に接する相手でもない。


 


呉での騒ぎ


かつての倭王は奴国で博多湾にあったが、


今回はそのはるか南に邪馬台国があって投馬国もあって大国らしい。


ほんとかな?でも帯方郡が現地視察したらしいぞ?


こう呉に思わせたら、疑心暗鬼でも成功です。


魏がしたのは金印の授与と場所の意図的な南下での発表。


たったこれだけで、一つの軍団を派遣するのと同じ軍事効果があったかもしれません。


 「呉 三国志」の画像検索結果


もっとも呉は狗奴国と提携し、親魏倭王の邪馬台国を滅ぼそうとしていたのかもしれません。


すると狗奴国というのは沖縄、奄美を支配する薩摩、勢力ということに?


薩摩の霧島あたりの王は


親呉倭王の金印をもらっていたかもしれません。



 洛陽から帯方郡より、建業(呉の首都)から薩摩の方が近いのです。


このスケールでみると


倭は単独で遠方の国では全くなくて


洛陽、建業、薩摩、博多湾、近畿などすべてそれほど変わらない距離にあります。


そして洛陽は遠い。建業は近い



艾は「呉の名家・豪族はみな私兵を所有し、軍勢・勢力を頼れば、独立できる力を持っている」と述べている。


川勝義雄は「呉の将軍は親子兄弟間で兵の世襲が認められていた。この制度は世兵制と呼ばれている。呉の将軍達は世襲を許された私兵的な屯田軍を持ち、未開発地域で厳しい軍政支配を行っていた。屯田軍は土地開発(開拓)の尖兵であった」としている。


 


こういう事情ですから、呉の一つの軍団が当時の倭に来たら・・・・・


それは国を作れるでしょうね。


いかにも天孫降臨した人達見たいになります。


国譲りを強要できる。


平和な出雲に行きいきなり呉軍が、王の座をよこせと行ったら抵抗できないですね。


滅びるときに10ばかり部隊が来た可能性は十分にあります。


 「呉 三国志」の画像検索結果


 

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コメント

時々見物

Unknown
呉書、蜀書があって唐は、それを雑史と呼んでた。そして魏史と別に管理したとのこと。
なぜか?唐は自らを魏の正当な後継と自認していたので。
なので魏の記録が、正統性ある資料となったらしい。
で、呉書が今残ってるかまでは知りません。
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古荘英雄

一人灯のもとで古代史を紐解き探求しています。
魏志倭人伝、日本書記、古事記をもとに考えたこと、語りあったことなど
徒然に記します。

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