FC2ブログ

背振雑感

西の谷棚田


背振の山上の棚田です。


脊振山頂


そして背振山頂。自衛隊のレーダー基地は朝鮮半島を向いています。



現在の道路を重ねてみました。


吉野ヶ里というのは、福岡平野から峠越えで降りてきたところにあるのですね。交通の要所。ある人のブログによれば


ここから背振山頂が見えるのです。


現代の道路もそこが一番道を引きやすいから作っているので、古代と変わらない場所だと思います。


棚田もたくさんあるし滝もあるし、実際通るとなかなか変化に富むし、きれいで人も住んでるわけで、これは考えようによっては天然の陣地です。


やはり古代においてここが城の役割をはたしていたのではないか。


なんといっても半島の意味合いというのは現在のヨーロッパ、アメリカに匹敵する役割ですから、そこに目を向ける。そして周辺のすべての平野を監視できる。反乱や侵攻があれば昼なら必ず見える。


背振に王城があれば掘る機会もないからなかなか考古学的遺跡は見つからないわけです。


 


ところで魏の使節が末盧国、伊都国、ナ国を歩いたならそれが比定されている唐津湾から糸島、福岡平野ならば、あるいは


背振の山からその動きをずっと監視していたのかもしれません。


それほど背振の役割はおおきかったのかもというか、そういう風に使うと思うのです。この地政学的一とりであれば。


まるで周辺の平野という海に浮かぶ島のようではありませんか。




この九州北岸の山は壁のように広がります。この山のインパクトが倭人伝に記載されるのです。

スポンサーリンク

コメント

murasawatakehiko

昔の人は視力が良かった
まだ全体を読んでいないので既に書かれているかもしれませんが・・・、
博多湾からは回り込んで直接見えない太宰府政庁跡とか天満宮付近も脊振の山頂から直視できます。古代の通信機能としては中継局としての脊振山頂は最重要拠点ですよね。
また、久留米の高良山は卑弥呼や磐井の拠点の一つと思われますが、高良山から西に続く耳納連山の尾根には発心グライダー基地付近にも古い山城がいくつかあります。そこからは当然ながら博多湾が晴れた日には一望できます。脊振と同様、耳納も筑紫平野にとって非常に重要な山ですよね。

不弥人

耳について
投馬国の官名の耳とみみなり。おしほみみや綏靖天皇の和名である「かむやまとぬなかわのみみの尊」など天皇家にも関係ありかというこの官名は、宮崎県に耳川(川は新羅後でなり)や美々津があって日向のようでありますが、ここに耳納山がありますね。
いつから耳納というのでしょう。
投馬国ゆかりの地かもしれないなどと思ったりします。

作者

大宰府=伊都国
実は当初は大宰府が伊都国かと想像していました。
博多湾に上陸すれば東南五百里陸行であればちょうど大宰府あたりだと。そして西鉄や高速が走るこの平野部を魏の使節は歩いたのだと。
そのごいろいろ見聞きして伊都国は背振に王城のある背振から糸島半島までの山の大国ではと考えています。
中央の旧イト郡あたりに迎賓館があったと。役割は糸島半島と背振を使って女王国中核のすべて見張る枠割であると。

不弥人

よく見ると
筑紫平野の周辺の山もみな道が通っている。信州と違って九州のこの辺の山は低いこともあり、そうすると、特に平野が重要ではなくなるのでは?
むしろ川が下ることを利用する棚田の方が、水利上、簡単に田が作れるし、外的からの防衛も山間部の方が有利かもしれません。
すると高千穂に棚田があるように、また揚子江流域の米作は棚田であって、日本そっくりの風景であって、そしてジャポニカ米はまさにその長江流域からきたことを考えれば、日本に来た米作文明の人たちは平野よりもむしろ山に住んだのではないでしょうか。

天地無我

雑感
稲作。
山裾が耕作適地だったと思います。
平野部で耕作。
 ・台風…風と洪水による根こそぎの破壊。
 ・当然、機械はなく、代かき作業の負担から広い田は、造られなかった。
 ・治利水は山裾がやりやすい。
 ・平野部では、河川からの適度な距離、やや高台などの制約が生じたのでは。

投馬国(日向・宮崎平野として)。
根拠はないのですが、卑弥呼の共立など女王国に大きく関わっていたのではと思います。
記紀その他、地政学的整合など、そのように考えると解り易いように感じています。

(妄想ですが、大乱の渦中にはなかった投馬出身の卑弥呼が、象徴として女王に共立された。邪馬台国の地は、矢部川流域から熊本平野にかけて。やや広すぎると感じながらも、今はこの様に、揺れながらも考えています。)

少佐

投馬国
日向か出雲か。どちらもそういう気がしますが。日向の場合はなぜあそこがそんなに大国になる素地があったのか。
呉の軍団でしょうか。
出雲であればそのまま納得しますが、しかし現前と日向神話がある以上、やはり日向か、耳川と美々津もあるし。
しかし倭人伝の外に大国主の出雲があるか?魏が出雲を知らないことはないと思う。頻繁に新羅とも対馬ともやり取りしているわけで。
すると出雲のことは知っているのだから投馬国とは言わないか。やはり日向か。
では出雲を書かないものか。傍国の中に出雲という国があるとなぜないのか・

天地無我

所感
鹿児島・宮崎はもう一つの窓口、南方ルートの中継地として、特に宮崎は瀬戸内海・河内と関係が強かったのでは無いでしょうか。延岡辺りは、阿蘇を経由して九州他の地区との交流上の重要な、役割が出来ていたのではないでしょうか。

本題は、出雲は投馬国or狗奴国では?と思いますが。
"中国から眺めた"日本は玄関に九州が有り、その奥は倭種の住む地。出雲は半島と交易を行なっている内海の奥の港程度に感じたのではないでしょうか。(玄関の中から見るとそうは見えませんが。)
雲が出て向こうが見えない様に、半島が出雲を視界から遮り、その奥に追いやっている様にも感じます。
出雲は朝貢を行なっていたのでしょうか?。

博多・出雲~越・河内~瀬戸内海・宮崎の交流を考えるとき、関門海峡の交通量、難所度をどの程度に見積るかにより、大きく変わる様に思います。出来る限り避けたいかなり厳しい海路だった様な感じがするのですが。

作者

関門海峡
北九州市でも仕事を二年しまして、関門海峡は日常的に目にしてきましたのでその感想です。

ど真ん中を船で行くと確かに変化する潮流で難しい。でも基本木の船は沈まない。
そして九州沿岸、本州沿岸は安定していますから両島の航路としては、九州から河内に行くときは、遠賀川のちょい先から、山口県の西岸あたりにいって、あとは本州沿岸沿いに、逆のときは周防からずうっと本州沿岸沿いにいって、山口県西岸から遠賀の東方に。

あの門司と下関の間の、壇ノ浦のど真ん中を行くとやばいけど岸沿いにいけば大丈夫。
だから日向から行くときはもう国東あたりから周防にですね。
古代の航路はどうも周防。宇佐間のようですし。
非公開コメント

古荘英雄

一人灯のもとで古代史を紐解き探求しています。
魏志倭人伝、日本書記、古事記をもとに考えたこと、語りあったことなど
徒然に記します。

スポンサードリンク

プロフィール

古荘英雄

Author:古荘英雄
一人灯のもとで古代史を紐解き探求しています。
魏志倭人伝、日本書記、古事記をもとに考えたこと、語りあったことなど
徒然に記します。

ブログ村ランキング参加中

ブログ村古代史ランキング参加中

PVランキング参加中

ブロとも申請フォーム

検索フォーム

QRコード

QR