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古代の連合王国United kingdom of YAMATO

纒向は、日向と出雲と越と諏訪が連合して作った連合国である。


つまり大和である。


と思うのです。


出雲にあった交易センターがここに移ったというイメージで。


まず出雲版


交易センター



これで十分という気がするがなぜか纒向に移ったのです。



出雲は半島や対馬も想定した中心。海人の中心のような。


しかし纒向は列島の中心。ここで何か政治的地図がはっきりと変わったのだと思う。


纒向。ユナイテッドキングダムオブ ヤマト という感じです。皆が集まって人工的に中心を作ったかのような印象があります。


出雲の地図は自然です。単に真ん中を。


しかし纒向には中心に古代にあらわれる国がない。それこそヤマトになる。


うーん、何かやはりミッシングリンクが。


 


そして邪馬台国はこんなとこにはなく、筑紫平野だと思う。


そしてそうなるとこの交易センター連合には入らず。


つまりこのヤマト連合王国こそ狗奴国か。

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コメント

天地無我

鉄の自給
>しかし纒向は列島の中心。ここで何か政治的地図がはっきりと変わったのだと思う。

そう思います。
先ず、国内の諸々の自給量の増加が人口重心を東方・北方に移動させたと思います。
次に、多くを大陸に交易に依存していた鉄の自給量の増加か一気に。これで出雲・博多の重要性は著しく減ります。
こんな時大陸勢力への脅威感があったならば、日田に地勢がよく似た奈良は中枢地として最適と思います。
兼ねてより、縁者が入植し、その環境も整備されていたならば、なおさらです。

具体的な事象は兎も角、この様な土壌・背景は時の流れの中に生じていたと思います。

少佐さん提唱の四国ラインが日本縦断道の一部であり、(日本海側は大回り)奈良の必然性を強くしていると思います。
 

不弥人

海路
日向に住む者にとっては、四国とは直近の巨大な島ですね。そして伊予海峡を通って瀬戸内海に入ることを思えば、伊予半島に上陸することは多々あったように思います。そして日向のほうが文明度が上であれば伊予から瀬戸内海沿いに日向の人々が点在していき、やがて時をかけて混血もするし、高松方面へも広がり、それが河内へ、奈良へと行っても、人間の行動様式として自然に思われます。
特に瀬戸内海に対して、日向沖は荒れた海ですが、伊予海峡からは凪いだ海になる。その変化は古代船乗りには特別な感慨があったことでしょう。
瀬戸内海は伊予海峡と関門海峡で出入り口をくくりつけられたようになっていますから。
そして作者の提唱のように日向も出雲に出向いていたことを考えれば、この日向豊後水道間の海路は頻繁な混雑ルートであったでしょう。
日向からの視点でみると伊予、九国東半島=宇佐、周防などは重要だと思います。日向が瀬戸内海交易をする場合の東端の相手は吉備ですね。遺跡や遺物の分布から、淡路が東限のようですから。だからおそ神武は8年も吉備にいたのでしょう。もともと、貿易相手として友好国だったのでしょうし、出雲交易センターの枠組みで、みな毎年顔を合わせる知り合いだったはず。

作者

四国
確かにぼくの故郷大分県臼杵市からでも小さな島々の向こうに四国の巨大な陸影が見えて特別な陸でした。日向から少し北に行き、大分県の佐伯あたりから伊予までの間東には巨大な四国がずっと広がる。
四国とはやはり特別な存在ですね。
どうみてもこの島は日向や吉備や豊後や国東半島に対して影響がある。ただし主役ではない。野球でいえば二番バッターや、いぶし銀のセカンドや打率が低いがリードの優れたキャッチャーのようななくてならない存在。
それにしては四国の記述が古代には少なすぎますね
それも不思議です。

神墓学者

隠岐の島
出雲中心の地図を見て思ったのですが、この広がりは縄文時代に隠岐の島の黒曜石を求めてやってきたということではないか。そして隠岐の島に直接行くことはなく、門前町のように、隠岐の島対岸町としての出雲があったのではないだろうか。
出雲の立地は九州は半島からくるとちょうど、カーブするところだから、目印になったと思う。
すると出雲というのは、縄文時代のネットワークの中心では?そして銅まで使うようになったが黒曜石の時代が終わったから纒向に中心を譲ったのでは?
同じことは諏訪にも言える。そして、国譲の時に息子の一人が諏訪に行って謹慎するというのは、見ようによっては、黒曜石文明の終了を宣言したのではないか。黒曜石の時代は1万年くらいつづいたのですから、それは大変な出来事です。出雲と諏訪が中心から外れるというのは。
一万年の黒曜石支配が終わった国譲りからまだ2000年くらいしかたってない。
歴史とは洋の東西を問わず悠久です。

天地無我

もし高知が黒曜石の一大産地だったら
衣・食・住。   道具・場所・道。
ある程度の平地。黒曜石・銅・鉄。交易路。

中央構造線。
諏訪・名古屋・奈良・姫路・松山・大分・熊本。
大きく迂回も必要なく、ほぼ一直線に。
道中、さえぎるものは2つの海。
陸の難所は東山道神坂峠の10㎞弱だけ。

この縦断に直交する東西道が"四国中国のど真ん中を除き"ほぼ100㎞毎にある。

宮崎~瀬戸内海~河内の海路の大動脈。
太平洋航路の必要性が乏しかったのか。
高知への必然性は?。
和歌山~阿南~高知~愛南~佐伯、の四国ラインも地図では見えるが。また、高知~吉野川~三好、の東西ラインも見えるのに。

神墓学者

Unknown
出雲時代は朝鮮も渾然一体。対馬などの役割も大きそう。しかしマキムクから、半島がプラスアルファのよう。

天地無我

付録の国
主役になったことがない、常に"プラスアルファの国"。

今、何にでも、自国起源を言い張る国。病的に順位に拘る国。

文化の中継地、脅威から緩衝材の役割は果たし、それなりに有り難い国ダッタ。

マキムクから感じる今は…ただ…だけ。

 (喫茶店で少し冷めたアメリカンを飲みながら)

天地無我

もし高知が黒曜石の一大産地だったら -2-
もし、高知が交易拠点の1つとなれば、四国東岸の人口も増え、鹿児島・宮崎・日向~高知~和歌山の海路が大きく開かれる。
更にこの海路は濃尾平野にまで。
濃尾平野の立地条件近畿に劣らない。大きな勢力を持つに至ったと思う。

大きくなった濃尾勢力は若狭経由で大陸と。また、周防・吉備辺りの交易もかなり太平洋に向く事になる。
結果、奈良・河内は包囲された形とでも有り、求心力も低下することになる。
ヤマトも無かったかもしれない。

要するに、黒曜石など魅力的な物がなく、四国がこの時代に出て来られなかった。この事が、ヤマト興隆の必要条件であった。
物語に、四国が出てこない事は不思議でなく、当然のこと思う。

作者

Unknown
ニニギのお兄さんの天火明命(アメノホアカリ)=ホアカリノミコトも天孫降臨したとなっています。
場所は若狭湾の冠島。
そしてホアカリノミコトの神社は真清田神社(愛知県一宮市)
住吉大社(大阪市住吉区) であり
このことから若狭湾に上陸して、琵琶湖を経由して、濃尾平野と河内平野に進出したのではと思います。
なんとそのルート上に猿田彦神社がいくつかあります。ちょうでお九州に博多、薩摩、高千穂に猿田彦神社があるように。
だから濃尾平野勢力というのはいたと思います。ホアカリノミコト『新撰姓氏録』では、天火明命の子孫を「天孫族」としている。天孫族は大和国葛城の高尾張から尾張国に移り、子の天香山命(あめのかぐやまのみこと)の時に定住し、真清田神社(愛知県一宮市)に天火明命を祀ったとしている。
尾張氏(尾張連)・津守氏、海部氏など多くの氏族の祖神であり、海部氏系図(あまべしけいず)にも始祖としてその名が記されている。
穂積氏、物部氏の祖であるニギハヤヒと同一ともいわれる。

となっています。つまり物部の始祖とか、国宝となっている、海部氏系図(あまべしけいず)でも重要氏族の始祖です。つまり若狭湾から列島に上陸して列島内部に進出した一派が間違いなくいたということです。
地政学上そう進むと思います。

作者

面白いので
http://blog.goo.ne.jp/admin/editentry?eid=cc85abb56d65cacd3295547ca928a083&p=11&disp=10" rel="nofollow" target=_blank>http://blog.goo.ne.jp/admin/editentry?eid=cc85abb56d65cacd3295547ca928a083&p=11&disp=10



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このルートを研究している女性の学者がいらっしゃいます。丹波王国という本を。遺跡も神話もそろっている。

しかし高知ルートはいまのところ遺跡も記録もない。民衆の交流で根強かったかも。しかしながら、ちょっと失敗すると太平洋に流される。瀬戸内海や日本海は凪がされても遭難しない。この違いは大きいか。

天地無我

惹きつけるもの
太平洋岸海路。難しい道だったとは思う。
必要であれば切り開いたのでは。

神津島海路はあった。
東征は熊野まで海路

関門海峡・鳴門海峡・瀬戸内の潮流の激変。
見たことない私からは充分に海の難所に思える。

よく知る地元の海の民がいた。これらが海路に格上げしていった。

いずれにしても、四国東岸には黒曜石のように人を惹きつける強力なものはなかった。この時代の人が太平洋岸海路開拓に挑戦する必要はなかった。
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古荘英雄

一人灯のもとで古代史を紐解き探求しています。
魏志倭人伝、日本書記、古事記をもとに考えたこと、語りあったことなど
徒然に記します。

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