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吉備の探求 邪馬台国吉備説を考える①

前方後円墳

吉備は古代、畿内出雲国と並んで勢力を持っていたといわれ、優れた製鉄技術があり巨大古墳文化がありました。

前方後円墳の存在が明確でないのは、北方では北海道青森県秋田県

南方では沖縄県の計4道県にすぎないのですが、当時の日本の範囲に北海道と沖縄は除外していいでしょうし、青森もそうでしょう。秋田は微妙ですが、実質的には日本中にあったわけです。

離島の対馬壱岐隠岐などにも存在する一方で、これまでのところ淡路ではなぜか

存在が確認されていません。

各地域で最後に建造された前方後円墳はその時期にほとんど差がないことが判明している。

5世紀を最後に建造が途絶えた徳島県などは数少ない例外である。

日本列島以外でも、韓国の西南部、全羅南道に当たる栄山江流域を中心に10基程度が分布します。

近藤義郎は、前方後円墳の成立の歴史的意義について


「畿内中枢や吉備を中心とするの各地の進んだ部族首長達が、対内的・対外的必要から集まり、それぞれの狭い祖霊の世界、つまり、地域ごとの祭祀的・政治的世界から抜け出し、前方後円墳の世界として列島の多くの部族集団を祭祀的・政治的に結びつけた」として、このような「倭的世界の形成」つまり「前方後円墳秩序の創出」によって日本列島各地の部族首長に明確な格差が持ち込まれたとしている



吉備の大型古墳

こうやってみると、10以上の大型古墳の場所って奈良と河内と吉備ですね。

いかにも吉備と奈良の同盟のような。

吉備の特殊性がわかるわけです。纏向遺跡からも吉備の銅鐸が出土します。


神武東征

神武東征というとスタートが日向でゴールが奈良と言われますが

しかし戦国時代の文明でも、鹿児島や日向から出た艦隊が、瀬戸内海へ入り、大阪湾に上陸するなどという軍事作戦は不可能に近い。

神武東征の軍事的事実は、最後に船団が出たのは吉備であったということです。

つまり河内で長洲根彦と戦った神武軍とは

優れた将軍神武に率いられたた吉備の兵団だったと考えるのが妥当でしょう。

 

11月に筑紫国崗之水門を経て、12月に安芸国埃宮に居る。乙卯年3月に吉備国に入り、高島宮の行宮をつくって

3年又は8年滞在して船と兵糧を蓄えた。


これって尋常ではない期間ですね。

そしてこれは鉄と兵の募集、そして少人数で来た神武が吉備に後援者になってもらう時間か。



    • 出雲と吉備は鉄の山を挟んでいます


吉備勢力は出雲征服を試みるも完遂寸前に出雲東部の意宇王の前に失敗。

以後、ヤマト政権と同盟して列島の統一・治世に貢献し、

古墳時代から飛鳥時代まで繁栄した地方として重視された。

河内王朝時代には、ヤマト政権中央部に対抗するほどの勢力を誇ったが、

これがヤマト政権の警戒を呼んだのか、後はヤマト政権の謀略などで勢力が削減されていった。



古代吉備平野

古墳時代、吉備地方の現在の岡山平野南部は内海となっていた(吉備穴海、もしくは吉備内海と呼ばれる)。


吉備は石器時代以来の数万年にわたる歴史を持つ国である。
最初に人類が日本列島に生活を始めたとき、ほぼ同じ頃、吉備の土地に人間の歴史が始まった。

 古代吉備の瀬戸内は当然のことながら現在とは一変する。
南部に広がる岡山平野も、地層や発掘調査によって、上図のとおり瀬戸内海であったとみることができる。この岡山平野は吉井川・旭川・高梁川の三大河川とともに、民族の営みと、そして吉備国の繁栄によって、永年にわたる土砂の自然堆積と、「たたら製鉄」による副産物の土砂、さらには海岸の埋め立てなどによって現在のように広大な岡山平野が形成されていったのである。

 このように長い吉備の歴史のなかで、政治的な芽生えが認められるのは、2、3三世紀頃と考えられており、ほぼ日本列島全体の体勢と一致している。
私たちが吉備文化と呼び、地域的な特異性を取り上げるのは、この2、3三世紀以降の古代文化を指しているのであり、岡山の古墳はすべて2、3世紀以降7、8世紀にかけての遺産である。 


この地方独特の特殊器台・特殊壺は、綾杉紋や鋸歯紋で飾られ、赤く朱で塗った大きな筒形の土器で、


弥生時代後期の後半(2世紀初めから3世紀中頃まで)につくられ


(これは邪馬台国の卑弥呼の時期です)部族ごとの首長埋葬の祭祀に使われるようになり


弥生墳丘墓(楯築弥生墳丘墓)や最古級の前方後円墳(箸墓古墳西殿塚古墳)から出土しており、


後に埴輪として古墳時代に日本列島各地に広まった。

ということは埴輪の起源や前方後円墳の起源は吉備でしょうか?


5世紀に雄略天皇は地域国家連合体であった国家をヤマト王権に臣従させて中央集権を進めるために、


最大の地域政権の一つ吉備に対して「反乱鎮圧」の名目で屈服を迫った



瀬戸内海交易世界という視点



吉備は瀬戸内海の関所のようなものですね。瀬戸内海の制海権の最重要を持っていた。この世界は西の宇佐と東の河内、そして中央の吉備が支配していたのだろうと思います。まして吉備は瀬戸内海最大というか唯一の平野地帯です。


 瀬戸内海は四つに分割することができる。その中央部、岡山と高松と小豆島に囲まれたゾーンは吉備によって完全に制海権が確保されている。


すると瀬戸内海全体の通行を吉備が管理していることになる。すると通行には銅や米や黒曜石などなど、通行税を取っていたかもしれない。



大和朝廷と吉備氏



  1. 景行天皇の妃となった播磨稲日大娘は、ヤマトタケルを生んだ。

  2. そのヤマトタケルと共に蝦夷遠征を行った吉備武彦の娘は、ヤマトタケルの妃となった。

  3. 吉備武彦の子の鴨別(かもわけ)は、仲哀天皇の熊襲征討に功績があった。

  4. 兄媛は応神天皇の妃、黒媛は仁徳天皇の妃となった。


このように、王家に娘を入れて婚姻関係を結び、その軍事行動に参加するという形で、大和朝廷と連合関係にあった。 


これを見ると三世紀や四世紀にも栄えていますね。


 

吉備津神社


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主祭神


第7代孝霊天皇の第三皇子で、元の名を彦五十狭芹彦ひこいせさりひこ命(または五十狭芹彦命)。崇神天皇10年、四道将軍の一人として山陽道に派遣され、弟の若日子建吉備津彦命と吉備を平定した。その子孫が吉備の国造となり、古代豪族・吉備臣になったとされる。
社伝によれば、祭神の大吉備津彦命は吉備中山の麓の茅葺宮に住み、281歳で亡くなって山頂に葬られた。5代目の子孫の加夜臣奈留美命が茅葺宮に社殿を造営し、命を祀ったのが創建とする説もある。また、吉備国に行幸した仁徳天皇が、大吉備津彦命の業績を称えて5つの社殿と72の末社を創建したという説もある。


 


吉備の邪馬台国と大和の狗奴国


吉備邪馬台国東遷説

吉備の概略のユーチューブです。面白い。

⇩  ⇩

吉備の国力



  

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コメント

天地無我

吉備までの必然性?
神武東遷。吉備逗留から、2・3の考察 。必然性が?。

①逗留地が吉備。…広近畿勢力は神武勢力を警戒し、懐に入れることを拒否。広近畿勢力の中心は出雲・河内・越であり、吉備は距離をおいていた?。
②3年又は8年滞在。…河内・生駒は対抗勢力。九州で必要戦力の充足が出来なかった。九州脱出?or東征?。九州の情勢?。
③崗之水門を経て。…宇佐は通り道or必ず寄る地?。宇佐から直接出発しなかった→崗之水門にても集結?。武器・船ならば宇佐へ。挨拶?すべき人?。

作者

Unknown
遠賀川勢力と合流して吉備へ行きましたよね。日向、宇佐、遠賀、吉備。連合軍。この連合軍というのは当時の世界の大国です。遠賀には筑紫からも人が来たのならば九州連合軍に加えて吉備連合軍。でも近畿では弱い弱い軍団の神武ですから、きっと日向から新天地を求めて移動し、まず宇佐、いまいち、そして遠賀、ここでも目がでない。そして吉備。割とよかったがもう一つ。最後に近畿。なんとか奈良に土地を持てた。そのままいつくことができた。
実際はこんなものではないでしょうか。神話通りならば3代位天皇までに全国統一です。

天地無我

39です。
そうですね。
「日向から新天地を求めて移動し、まず宇佐、いまいち、そして遠賀、ここでも目がでない。そして吉備。割とよかったがもう一つ。最後に近畿。なんとか奈良に土地を持てた。そのままいつくことができた。」 
短期戦の行軍イメージを持っていました。このニュアンスがイメージ出来ませんでした。納得。
経路の地名を書き換えれば、信長や家康、黒田家・上杉家等もほぼ、当てはまりますネ。国取物語だったのですネ。

作者

Unknown
そうか、信長でも時間かかりましたよね。吉備征服に数年。本願寺や武田には苦しみましたよね。そうか、国取りですね。
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古荘英雄

一人灯のもとで古代史を紐解き探求しています。
魏志倭人伝、日本書記、古事記をもとに考えたこと、語りあったことなど
徒然に記します。

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