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邪馬台国と出雲

新羅


新羅の位置


これを重ねて見て


   出雲時代は辰韓であったと思います。


辰韓の民の話す言語は秦の人に似ており、辰韓は秦韓とも呼ばれていた


ため、実際に中国からの移民と考えて間違いない、と述べている[5]


上田篤は、「秦の始皇帝が天下を握った紀元前221年ごろには、秦以外のすべての国々は消滅した。


すると、大陸内には、もはや亡命する国さえない。そこで、


何万、何十万というかつての権力者とそれにつながる人たちの多くは、


海外、あるいは漢民族の支配圏以外の国々への亡命の道を選んだのではないか。


 


そしてまた紀伊半島の先端は


熊野古道の地図


 


出雲から350キロの場所に何があるか。


ちなみに対馬と帯方郡の距離でもあります。


そして2百キロの場所にもそれらしい地名があります。


この世界にとっては出雲はまさに中心です。


新羅と出雲と越と対馬、壱岐、高千穂、邪馬台国とみな同じ世界。


地理的に出雲が中心だから出雲に神々が集まる。


これはこの交易圏の中で、


一番便利のいいところが、選ばれたというに過ぎないのではないか。


なんとなく裏日本の辺鄙な端っこというイメージがあり、なんであんなとこにわざわざと考えがちですが


実は越と新羅の2つの要素を加えると風景が変わります、熊野と伊勢と九州を一体化するとど真ん中なのですね。


この世界ではこここそが交通の一大集積センターです。


だからここの支配者の称号は大国の主であり


ここをとるということは、この世界全部を取るということです。




出雲が作った交易世界をヤマト王権は国譲りという形で


脅し取ったので、逆に征服戦争の大きなものはなかった。


出雲中心の大交易圏の主宰者の立場を取った。譲らせた。


そういうことだと思うのです。上の地図を見るにつけ。


稲差の浜



建御雷神と天鳥船神は、出雲国伊那佐の小濱に降り至って、十掬剣(とつかのつるぎ)を抜いて逆さまに立て、その切先にあぐらをかいて座り、大国主に「この国は我が御子が治めるべきだと天照大御神は仰せである。そなたの意向はどうか」と訊ねた。大国主神は、自分の前に息子の事代主神に訊ねるよう言った。事代主神は「承知した」と答えると、船を踏み傾け、逆手を打って青柴垣に化え、その中に隠れた。


では天孫族はどこから来るか。新羅か対馬か邪馬台国から来たとしか思えませんね。


ちなみに対馬のアマテル神社の伝承では


この神は神あり月に一番遅く出向いていき、一番早く帰ったと。


対馬のアマテル神は出雲に出向いていたというのですね。


参勤交代ですね。




そしてくに譲りの時に


天照大御神は、「葦原中国は私の子の正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(あめのほしおみみ)が治めるべき国だ」と命に天降りを命じたが、命は天の浮橋から下界を覗き、「葦原中国は大変騒がしく、手に負えない」と高天原の天照大御神に報告した。


国譲りの時の季節は神在月だったのではないでしょうか。


大ぜいの支配者が集っていた。


大国連合国に地域の支配者みなが集まっているところで、権力の禅譲をさせたのではないでしょうか。


クーデターのようなものですね。


だからほかの神様もみな天孫族に従うことになる。


 



  • さらに鉄の山地





  • 地理的にも中心で鉄も抑える。ここにみなが集まって連合政権を作っていたのだと思うなあ。

  • 交易の話し合いとか、鉄の分配とか。諏訪が黒曜石で人を集めていたのが、出雲がその機能を継いだ。


 

 


  • 旧暦10月10日の夜、記紀神話において国譲りが行われたとされる稲佐浜で、全国から参集する神々を迎える「神迎祭」が行われる。その後、旧暦10月11日から17日まで出雲大社で会議が行われるとして、その間「神在祭」が行われる。旧暦10月18日には、各地に帰る神々を見送る「神等去出祭」が出雲大社拝殿で行われる。出雲大社の荒垣内には、神々の宿舎となる「十九社」があさ




つまり会議をやっているところにきて、国譲りを迫ったのですね。やはり。

出雲地方のほかに神在月とする地域が一ヶ所あり、


諏訪大社の周辺となっている。


これは伝承によれば、かつて諏訪大社の祭神であった「諏訪明神」があまりにも大きな体であったため、


それに驚いた出雲に集まった神々が、気遣って


「諏訪明神に限っては、出雲にわざわざ出向かずとも良い」ということになり、


神無月にも諏訪大社に神が有ることから神在月とされている。




これは重要だ!!!知らなかった。


やはり諏訪は縄文以来の聖地か。


 






建御名方の服従[編集]


建御雷神は建御名方神を追いかけ、科野国の州羽の海(諏訪湖)まで追いつめた。建御名方神は逃げきれないと思い、「この地から出ないし、大国主神や事代主神が言った通りだ。葦原の国は神子に奉るから殺さないでくれ」と言った。


建御名方=新潟県糸魚川市に残る伝承では、大国主と沼河比売との間に生まれた子が建御名方神で、姫川をさかのぼって諏訪に入り、諏訪大社の祭神になったという。『先代旧事本紀』でも建御名方神は沼河比売(高志沼河姫)の子となっている。


地元伝承が正しいものです。こういう場合は。


ということはもともと越と諏訪の神様であり、




出雲から追われて逃げたのではなくて、


神在月だから、出雲に来ていただけ


そして、「今回の国譲りはおかしかろうや」


と文句をつけて「おれは帰る」と言って帰ったのだと思います。


越と諏訪は聖域のような権威を持っていたから、


追いかけて、文句は言わないで諏訪にそのままいてくださいな、と釘をさしたのではないでしょうか?


越と諏訪のその後をみるとヤマト王権は強くでてないし、


継体天皇は越の人ですからね





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古荘英雄

一人灯のもとで古代史を紐解き探求しています。
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