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  • 建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬 安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見— 『後漢書』東夷列傳第七十五建武中元二年(57年)、倭奴国は貢物を奉じて朝賀した。使人は自ら大夫と称した。倭国の極南界なり。光武は印綬を賜った。                金印ですねまた、安帝の永初元年(107年)に倭国王は帥升らに奴隷百六十人を献上させ、朝見を請い願った(後... 続きを読む
  • 行程です。 1.帯方郡から倭に行くには、海岸に沿って航行し、韓国を経由して、あるときは南にあるときは東にすすんで、その北岸の「狗邪韓国」に到着する。約七千里である。 2.そこではじめて海を渡り、千余里で「対馬国」に至る。その大官は「卑狗」といい、副は「卑奴母離」という。住んでいるところは四方四百里あまりの広さの孤島である。その土地は山が険しく、深い林が多く、道路はけもの道のごとくである。千余戸... 続きを読む
  • まず魏志倭人伝は行程についてはこう始めている帯方郡から倭に行くには、海岸に沿って航行し、韓国を経由して、あるときは南にあるときは東にすすんで、その北岸の「狗邪韓国」に到着する。約七千里である。          その北岸というからには邪馬台国連合中核は韓の南ではないか。つまり九州だ。畿内に本拠地がある国だったら、その北岸というだろうか?帯方郡から女王国までの距離は一万二千余里である。行程の最後には... 続きを読む
  •  ところで日本海から若狭湾にたどり着くと、つまりここは丹後と丹波と越ですけども、ここに上陸したら近江へ。つまり琵琶湖へは半日か。そして琵琶湖には伊勢遺跡があります。関が原を通って簡単に巨大な尾張平野へ、海岸線を伊勢へ。そして淀川で河内へ。南、マキムクの奈良盆地へ。 若狭湾はすべてのこの地域の入り口ですね。するとそこを基点に出雲、半島とつながります。   日本海から見る列島ですね... 続きを読む
  • 邪馬台国は巨大な領域だったのか。それても狭い領域だったのか。 たとえば日本列島だけで九州の北半分ほどを想定すると、なんだかローカルすぎるわけですが半島の南端地域も含め対馬、壱岐、出雲の隠岐島、その間の対馬海峡沿いの島々を想定すると広大な領域になる。邪馬台国は対馬海峡国家だったと想像しています。 このとき日本列島も朝鮮半島もない、まさにその接合点こそが邪馬台国だったとなります。そして対馬海峡... 続きを読む

古荘英雄

一人灯のもとで古代史を紐解き探求しています。
魏志倭人伝、日本書記、古事記をもとに考えたこと、語りあったことなど
徒然に記します。

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Author:古荘英雄
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